皆さんこんにちは!
東京文化ライオンズクラブと歴史探求団体「ヒストリンク」のコラボレーション企画
ヒストリーライオン『どうした家康・なにした家康』の12月号を配信いたします:)
今回も私、盆踊りDJ鈴木として盆踊り活動もしている鈴木慎平がお送りします。
大河ドラマでもいよいよ「関ケ原の戦い」について描かれました!
数々の見どころのある戦いですが
今回はポイントを絞り、いくつかの定説に対する
最近の説や戦いの前後を紹介します。
【新説のたくさん登場する関ケ原】
『NHK大河ドラマ歴史ハンドブック どうする家康』巻末の解説によれば
関ケ原の戦いは戦いの規模が全国規模であったため、
日本の各地に分析されていない文書が膨大に存在するとのことで、
資料読解や翻訳がまだまだ進んでいないそうです。
これらの活動に取り組むなら国家プロジェクト規模にしなくてはならず
依然として未解析・未決定な部分が多い。
そのため、これらの解析が進むごとに新しい解釈が現れてくるのが関ケ原だそうです。
例えば小早川秀秋の裏切りは「戦いの最中も悩みぬいて”問鉄砲”を射かけられて決断した」
という話が定番ですが、こちらもすでに学説としては否定されていて、
・小早川は開戦後すぐに西軍を裏切り東軍に味方した
・問鉄砲の逸話は一次資料には存在せず、そもそも問鉄砲の届く位置ではない
などになってきているようです。
また「明治時代の陸軍演習図を見たドイツ軍参謀少佐のメルケルが関ケ原の顛末を聞き驚いた」
という有名なエピソードも事実ではなく創作であるとのことです。
【参考】
メッケル少佐が関ヶ原合戦を「西軍の勝ち」と言ったことが嘘である3つの理由
近代戦術家は関ヶ原の西軍勝利を確信したか?(前編)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71777
このように、新しい説が日進月歩で登場して目の離せない関ケ原の戦いですが、
ここから戦いの概要についておさらいをします。
【おさらい:関ケ原の戦いとは】
関ケ原の戦いは慶長5年9月15日(1600年10月21日)
美濃の国にある関ケ原で行われた戦いです。
秀吉死後の豊臣政権内では
大大名の「五大老」と官吏「五奉行」の間で対立が発生しました。
五大老筆頭である徳川家康と五奉行の中心であった石田三成。
この二者による「豊臣政権内での争い」が関ケ原の戦いです。
(※この時の家康はまだ豊臣の臣下であり、豊臣VS徳川ではありません)
【背景】
慶長三年(1598)の秀吉の死後、豊臣政権内で五大老筆頭として政治的影響力を強めていく家康。
この動向を危惧した五大老の上杉景勝は家臣の直江兼続(愛の前立てで有名!)らとともに領国内の軍事力増強を行いました。
慶長五年三月には家康と景勝の間を取り持っていた家臣(藤田信吉)が追放され、
家康はそれらの動きに対する問罪使を配下の西笑承兌(さいしょうじょうたい)に送らせました。
「謀反の心がないならば上洛して申し開きをせよ」
このような内容の詰問に対して、
直江兼次はかの有名な「直江状」という家康を挑発する文章を送り、
家康は上杉征伐を決めたのでした(上杉征伐)
この征伐へ向かう最中の7月24日に家康は石田三成の挙兵を聞き、
「小山評定」を開いたあと軍を反転させ三成征伐へと向かうのでした。
ちなみに従来では「家康は三成の挙兵を誘うために上杉攻めを行った」という考えがありましたが、
最近の研究では
「家康にとって三成や大谷吉継だけを倒してもメリットはない」
「他の五大老・五奉行を一網打尽にできると家康は当初考えていなかった」
といった意見が登場してきており(2023水野伍貴など)
家康の上杉攻めの意味も以前とは違う形で考えられています。
こんなにまで敵対されるとは思わなかったならば
自分以外の四大老・五奉行を敵に回したと知ったときは
まさに「どうする?家康」の気持ちだったことでしょう。
江戸で準備を整え西に向かった家康ですが、
家康自身の主力部隊を預けた徳川秀忠は真田昌幸に阻まれ(第二次上田合戦)
なんと関ケ原の決戦当日には間に合いませんでした。
ドラマでも登場する榊原康政や松ケン演じる本多正信などは関ケ原を戦っていません。
(そのため出せる恩賞がなく康政は戦後家康との仲が微妙になったとも言われています)
家康次男の結城秀康、四男の松平忠吉と井伊直政、本多忠勝らは家康と行動し、
忠吉、井伊らが一番槍を勤めたことで徳川家のメンツは保たれましたが、
それでも戦いの主役は豊臣家の武将が中心であり
家康は徳川方の主たる武将には恩賞を与えることができませんでした。
研究者の本多隆成氏は著書『徳川家康の決断』の中で
恩賞の与え方について考察している箇所がありますが
豊臣系の武将に力を与えることのないよう、
大幅に加増を行いつつも遠隔地へと転封を行い、
その措置を行うことで関東や東海、畿内に近国の重要な地域を
徳川系の家門・譜代で固めたとのことです。
小田原の後北条攻め以降は家康の本拠地は関東となっており
元々の出身であった三河や遠江などは秀吉に抑えられてしまっていましたから、
それを取り戻して防備を固められたのには大きな意義があったことでしょう。
大河ドラマの中でも本多忠勝が自分の肖像画を
「西ににらみをきかせるために」と厳めしく描かせていたように、
まだ関ケ原が終わった段階では豊臣は滅んでいないのです。
戦勝報告に茶々と秀頼に挨拶にきた家康も
それ以降豊臣家とは一線を引くことになりますが、
天下の情勢はこの時点ではまだ見えていない状況。
マツジュン家康も関ケ原のことを
「あれはしょせん豊臣家中の仲違い」と表現していましたが、
それはこの事態を指してのことでしょう。
家康もすでに59歳と(当時としては)高齢であり、秀吉が死んだ年を超えていました。
家康死後に豊臣家が天下を取り返すと当時の武将も考えていた節があったのです。
そんな中最新の大河では秀吉の子秀頼の切れ者しぐさや、
家康から将軍の座を授かった秀忠の情けない発言(昔のマツジュン家康を思い出す?)
などなど、ますます目が離せなくなってきました。
そういった状況の中、大河ドラマはいよいよクライマックスを迎えます。
「大阪夏の陣・冬の陣」のフィナーレに向けて。
その時を一緒に見守りましょう!
【ヒストリンク、名古屋・岡崎でも活動しております!以下代表の斉藤太一氏のイベントレポートをどうぞ♪】
先日11月18日に、ヒストリンクが企画協力している歴史ファンコミュニティ・どうする岡崎家臣団のリアルオフ会イベントがありました!
岡崎城にある、普段はなかなか入れない清海堀を下に降りて探検し、城郭・地元の歴史に詳しい市職員のガイドで理解を深めました。
大河ドラマ・どうする家康効果で、少しずつですが、新たな歴史ファン・大河ドラマファンが生まれております。
ヒストリンクとしても、家康や徳川家をテーマにした講師派遣サービス利用などが着実に増えております。
どうする家康は12月に終わりますが、24年は映画「もしも徳川家康が総理大臣になったら」が放映予定と、家康から学ぶ機会はまだまだ続きそうです!
【ご参考】
☆どうする家康HP
https://nhk.or.jp/ieyasu/
☆ヒストリンク
https://historyenjoy.com
メッケル少佐が関ヶ原合戦を「西軍の勝ち」と言ったことが嘘である3つの理由
近代戦術家は関ヶ原の西軍勝利を確信したか?(前編)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71777
【文責】
東京文化ライオンズYCE委員会・地理歴史研究班所属、鈴木慎平
協力:徳川家を楽しむ会(歴史研究者とのマッチングサービス)
連絡先:yanaka.labo@gmail.com
歴史団体ヒストリンク・歴史を楽しむ会 代表 斎藤太一
連絡先:http://histlink.pro.fan@gmail.com