ヒストリーライオン『どうした家康・なにした家康』【徹底解説!「五奉行」と「五大老」という存在】

みなさんこんにちは!


東京文化ライオンズとヒストリンクの歴獅子コラボ企画「ヒストリーライオン、どうした家康、何した家康」のコーナーです。

NHK大河「どうする家康」もいよいよ佳境に入りました。前回の放送では
徳川と豊臣の緊張感が高まり、直接対決の時がいよいよ間近に迫っていますね。
今回は直前大特集ということで、天下分け目の大いくさ「関ケ原の戦い」に至るまでの経緯を紹介します。

日本史の教科書で登場した「五奉行」と「五大老」という存在。
そもそも彼らは何者で、どのようなパワーバランスを持っていたのか?
それがどのように関ケ原の戦いへ繋がっていくのか
こちらを徹底解説致します!

【関ケ原の戦い】
そもそも関ケ原の戦いとは豊臣秀吉の死後に起こった
「元・五奉行筆頭の石田三成」と「五大老筆頭の徳川家康」との権力争いです。
1600年(慶長5年)9月15日、現岐阜県の美濃国関ヶ原にて勃発しました。

秀吉の死の直前、跡取りである秀頼は六歳と幼いため秀吉は行く末を大変憂いていました。
このままでは(歴史に数多くあるように)誰かに政権を乗っ取られてしまう。
秀吉はその危惧感から、直属の部下である「五奉行」と有力大名「五大老」の十人が
共に豊臣政権を支えていく制度を整え、口頭や書面を使い何度も何度も「秀頼を頼む」と十人に伝えていました。

五奉行のメンバーは秀吉の直接の家来であり、今風にいうなら官僚的存在。

石田三成(佐和山19万石)
前田玄以(亀山5万石)
浅野長政(甲府22万石)
増田長盛(郡山22万石)
長束正家(水口5万石)

といったメンバーです。
対する五大老は
豊臣家以外の有力武将である以下五人

宇喜多秀家(57万石)
前田利家(北陸など83万石)
上杉景勝(奥州など120万石)
毛利輝元(中国地方8か国120万5千石)
そして徳川家康
(関八州255万石)

といった顔ぶれでした。
石高の比較から雰囲気が伝わるかもしれませんが、
二つの立場には明確な違いがあります。
五奉行はあくまで秀吉の部下でしたが、
五大老に関しては五奉行とはまた異なる政治的な立場を持つ武将たちでした。
(※五奉行は官僚、五大老は軍事も行う政治家のような存在といえましょう)

その中でも家康は飛び抜けた石高を持ち、
官位や官職も他のメンバーよりも一段高いところにありました。
前回の放送で前田利家が諭すように喋っていたように、
戦国終盤のこの時期には武田信玄や上杉謙信などの猛将たちは既にこの世になく、
次の世代への代替わりの中で、彼らや織田信長などを知る歴戦の兵はもはや家康や前田利家くらいになっておりました。
特に家康はかつての信長の対等な同盟相手であり発言力も豊臣政権の中で随一のもの。
これをきちんと牽制できるのはもはや利家だけとなっていたのでした。

そんな家康に秀吉は当然危機感を覚えており、秀頼の行く末を案じていた秀吉は、
秀頼と家康の孫娘(千姫)とを婚姻させるなど
徳川と豊臣家の融和を積極的に図っていました。
自らの亡き後の豊臣政権は簡単に家康に食われてしまう。その未来図が痛いくらいに想像できたのでしょう。

しかし、このような必死の取り組みが水泡に帰す致命的な亀裂が豊臣政権に入ります。
それは朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の後始末に端を発する
「文治派VS武断派」の争いのことです。
朝鮮出兵に行かされた加藤清正・蜂須賀家政・藤堂高虎
などの武将は出兵先で大変な苦労をかけさせられ、それに対する奉行方からの恩賞もなく大変遺憾に感じていました。
更には1598年(慶長三年)の秀吉死去のタイミングで国内にいなかったことから、その隙に権力を増した五奉行(特に石田三成)との対立が決定的になったのでした。

この不穏な空気を家康は巧みに利用しました。派閥争いを利用して
「文治派(石田三成)VS武断派(反三成・親徳川家康)」
の構図を作った家康は、武断派の諸将と私的な婚姻関係を進める(※これは軍事同盟を結ぶに等しい行為です)などして水面下に準備を開始し、
秀吉死去の翌年である慶長四年、前田利家死去のタイミングを見計らって
ゆっくりと行動を開始するのでした。
「奥州にいる上杉家、豊臣家に謀反の疑いいり!」として、
背中をわざとガラ空きにして東へ向かうのです…!

次回の大河ドラマ「どうする家康」では
家康と旧知の中であった鳥居元忠のエピソード(伏見城の戦い)がありますので
どうぞお見逃しなく!


【ご参考】
☆どうする家康HP
https://nhk.or.jp/ieyasu/
☆ヒストリンク
https://historyenjoy.com

関ヶ原の戦いが起こるまでの伏線と経緯4つ 西軍の敗因とその後の動き
https://benesse.jp/contents/history/sekigaharanotatakai/
【戦国こぼれ話】なぜ関ヶ原合戦は、関ヶ原で戦うことになったのか。誰も知らなかった意外な理由
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/85a59917bfb20a4eac11af89538912bae0e2e32d

【文責】
東京文化ライオンズYCE委員会・地理歴史研究班所属、鈴木慎平
協力:徳川家を楽しむ会(歴史研究者とのマッチングサービス)
連絡先:yanaka.labo@gmail.com
歴史団体ヒストリンク・歴史を楽しむ会 代表 斎藤太一
連絡先:histlink.pro.fan@gmail.com

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