ヒストリーライオン『どうした家康・なにした家康』【新説・関ヶ原の戦い!】

皆さんこんにちは!


東京文化ライオンズクラブと歴史探求団体「ヒストリンク」のコラボレーション企画
ヒストリーライオン『どうした家康・なにした家康』の12月号を配信いたします:)
今回も私、盆踊りDJ鈴木として盆踊り活動もしている鈴木慎平がお送りします。

大河ドラマでもいよいよ「関ケ原の戦い」について描かれました!
数々の見どころのある戦いですが
今回はポイントを絞り、いくつかの定説に対する
最近の説や戦いの前後を紹介します。

【新説のたくさん登場する関ケ原】
『NHK大河ドラマ歴史ハンドブック どうする家康』巻末の解説によれば
関ケ原の戦いは戦いの規模が全国規模であったため、
日本の各地に分析されていない文書が膨大に存在するとのことで、
資料読解や翻訳がまだまだ進んでいないそうです。
これらの活動に取り組むなら国家プロジェクト規模にしなくてはならず
依然として未解析・未決定な部分が多い。
そのため、これらの解析が進むごとに新しい解釈が現れてくるのが関ケ原だそうです。

例えば小早川秀秋の裏切りは「戦いの最中も悩みぬいて”問鉄砲”を射かけられて決断した」
という話が定番ですが、こちらもすでに学説としては否定されていて、
・小早川は開戦後すぐに西軍を裏切り東軍に味方した
・問鉄砲の逸話は一次資料には存在せず、そもそも問鉄砲の届く位置ではない
などになってきているようです。

また「明治時代の陸軍演習図を見たドイツ軍参謀少佐のメルケルが関ケ原の顛末を聞き驚いた」
という有名なエピソードも事実ではなく創作であるとのことです。

【参考】
メッケル少佐が関ヶ原合戦を「西軍の勝ち」と言ったことが嘘である3つの理由
近代戦術家は関ヶ原の西軍勝利を確信したか?(前編)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71777

このように、新しい説が日進月歩で登場して目の離せない関ケ原の戦いですが、
ここから戦いの概要についておさらいをします。

【おさらい:関ケ原の戦いとは】
関ケ原の戦いは慶長5年9月15日(1600年10月21日)
美濃の国にある関ケ原で行われた戦いです。

秀吉死後の豊臣政権内では
大大名の「五大老」と官吏「五奉行」の間で対立が発生しました。
五大老筆頭である徳川家康と五奉行の中心であった石田三成。
この二者による「豊臣政権内での争い」が関ケ原の戦いです。
(※この時の家康はまだ豊臣の臣下であり、豊臣VS徳川ではありません)

【背景】
慶長三年(1598)の秀吉の死後、豊臣政権内で五大老筆頭として政治的影響力を強めていく家康。
この動向を危惧した五大老の上杉景勝は家臣の直江兼続(愛の前立てで有名!)らとともに領国内の軍事力増強を行いました。
慶長五年三月には家康と景勝の間を取り持っていた家臣(藤田信吉)が追放され、
家康はそれらの動きに対する問罪使を配下の西笑承兌(さいしょうじょうたい)に送らせました。
「謀反の心がないならば上洛して申し開きをせよ」
このような内容の詰問に対して、
直江兼次はかの有名な「直江状」という家康を挑発する文章を送り、
家康は上杉征伐を決めたのでした(上杉征伐)
この征伐へ向かう最中の7月24日に家康は石田三成の挙兵を聞き、
「小山評定」を開いたあと軍を反転させ三成征伐へと向かうのでした。

ちなみに従来では「家康は三成の挙兵を誘うために上杉攻めを行った」という考えがありましたが、
最近の研究では
「家康にとって三成や大谷吉継だけを倒してもメリットはない」
「他の五大老・五奉行を一網打尽にできると家康は当初考えていなかった」
といった意見が登場してきており(2023水野伍貴など)
家康の上杉攻めの意味も以前とは違う形で考えられています。
こんなにまで敵対されるとは思わなかったならば
自分以外の四大老・五奉行を敵に回したと知ったときは
まさに「どうする?家康」の気持ちだったことでしょう。

江戸で準備を整え西に向かった家康ですが、
家康自身の主力部隊を預けた徳川秀忠は真田昌幸に阻まれ(第二次上田合戦)
なんと関ケ原の決戦当日には間に合いませんでした。
ドラマでも登場する榊原康政や松ケン演じる本多正信などは関ケ原を戦っていません。
(そのため出せる恩賞がなく康政は戦後家康との仲が微妙になったとも言われています)

家康次男の結城秀康、四男の松平忠吉と井伊直政、本多忠勝らは家康と行動し、
忠吉、井伊らが一番槍を勤めたことで徳川家のメンツは保たれましたが、
それでも戦いの主役は豊臣家の武将が中心であり
家康は徳川方の主たる武将には恩賞を与えることができませんでした。

研究者の本多隆成氏は著書『徳川家康の決断』の中で
恩賞の与え方について考察している箇所がありますが
豊臣系の武将に力を与えることのないよう、
大幅に加増を行いつつも遠隔地へと転封を行い、
その措置を行うことで関東や東海、畿内に近国の重要な地域を
徳川系の家門・譜代で固めたとのことです。

小田原の後北条攻め以降は家康の本拠地は関東となっており
元々の出身であった三河や遠江などは秀吉に抑えられてしまっていましたから、
それを取り戻して防備を固められたのには大きな意義があったことでしょう。

大河ドラマの中でも本多忠勝が自分の肖像画を
「西ににらみをきかせるために」と厳めしく描かせていたように、
まだ関ケ原が終わった段階では豊臣は滅んでいないのです。
戦勝報告に茶々と秀頼に挨拶にきた家康も
それ以降豊臣家とは一線を引くことになりますが、
天下の情勢はこの時点ではまだ見えていない状況。

マツジュン家康も関ケ原のことを
「あれはしょせん豊臣家中の仲違い」と表現していましたが、
それはこの事態を指してのことでしょう。
家康もすでに59歳と(当時としては)高齢であり、秀吉が死んだ年を超えていました。
家康死後に豊臣家が天下を取り返すと当時の武将も考えていた節があったのです。
そんな中最新の大河では秀吉の子秀頼の切れ者しぐさや、
家康から将軍の座を授かった秀忠の情けない発言(昔のマツジュン家康を思い出す?)
などなど、ますます目が離せなくなってきました。

そういった状況の中、大河ドラマはいよいよクライマックスを迎えます。
「大阪夏の陣・冬の陣」のフィナーレに向けて。
その時を一緒に見守りましょう!

【ヒストリンク、名古屋・岡崎でも活動しております!以下代表の斉藤太一氏のイベントレポートをどうぞ♪】

先日11月18日に、ヒストリンクが企画協力している歴史ファンコミュニティ・どうする岡崎家臣団のリアルオフ会イベントがありました!
岡崎城にある、普段はなかなか入れない清海堀を下に降りて探検し、城郭・地元の歴史に詳しい市職員のガイドで理解を深めました。

大河ドラマ・どうする家康効果で、少しずつですが、新たな歴史ファン・大河ドラマファンが生まれております。
ヒストリンクとしても、家康や徳川家をテーマにした講師派遣サービス利用などが着実に増えております。

どうする家康は12月に終わりますが、24年は映画「もしも徳川家康が総理大臣になったら」が放映予定と、家康から学ぶ機会はまだまだ続きそうです!


【ご参考】
☆どうする家康HP
https://nhk.or.jp/ieyasu/
☆ヒストリンク
https://historyenjoy.com

メッケル少佐が関ヶ原合戦を「西軍の勝ち」と言ったことが嘘である3つの理由
近代戦術家は関ヶ原の西軍勝利を確信したか?(前編)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71777

【文責】
東京文化ライオンズYCE委員会・地理歴史研究班所属、鈴木慎平
協力:徳川家を楽しむ会(歴史研究者とのマッチングサービス)
連絡先:yanaka.labo@gmail.com
歴史団体ヒストリンク・歴史を楽しむ会 代表 斎藤太一
連絡先:http://histlink.pro.fan@gmail.com

Mature紀行④Night Museum

「ルーブル美術館は混雑するので私は行きません。・・でも金曜夜ならいいかも」と、パリ在住の文化専門通訳ガイドさん。そういうものかと納得し、なんとか都合をつけて行ってまいりました。なるほど、到着するとこんなに空いているのかと嬉しくなってまいります。おちついた環境で3時間ほどじっくり見て回ると、もうくたくたです・・。今回はナイトミュージアムならではのじっくり体験の一部をご紹介します。

Louvre Museun  in summer 18時30頃(筆者撮影)

さっそく向かったのはリシュリューwing。17世紀のフランスの大政治家・大思想家でブルボン朝で絶対王政を確立した宰相の名前です。戦艦の名前になったり紙幣に肖像画が載るくらいなので日本でいえば江戸幕府初代征夷大将軍徳川家康のような存在でしょうか。私が最も行きたかったルーベンス『マリードメディシスの生涯』の絵画群とピッタリ世界が一致しました、同世代です。当代きっての芸術家ルーベンスが描いたこの大作群は、ブルボン朝の初代アンリ4世がフィレンツエの大富豪メディティ家から迎えた王妃マリーの生涯です。なかでもひときわ目を引くのが『マリーのマルセイユ上陸』。豊満な裸体をさらす肉感的なニンフ達と海神ポセイドンやトリトンに祝福されやってきたマリーは・・おや。圧倒的ヒロインであるはずの彼女はそれらしからぬ様相を呈しているようです。大金持ち娘さんは苦労をしらずのおばさん顔・・。実際には名実ともに「大きな顔」をしていたそうです。

🔳Marie de’ Medici

1625頃『マリーのマルセイユ上陸』

〜マリードメディシスの生涯より〜

ルーベンス・ルーブル美術館所蔵(筆者)

この絵をみてどうしても思い出すのがアンリ4世の公式の寵妃ガブリエル・デストレです。本来アンリ4世の王妃となるはずであったが突然死をしたという西洋史のミステリーです。彼女が妊娠し国王の庶子誕生を祝う作品があります。右がガブリエルで左手に指輪をもちとても幸せそうな様子です。妹が乳首を掴んでおり妊娠を連想させているそうです。よくみると背後では女性が股を開いている絵が飾ってあり何かを暗示しています。やはり幸せはそう簡単なものではありませんね。ガブリエルはアンリ4世にとって有能な外交官であり、事実上の妻であったと言われています。アンリはとてもガブリエルを愛していた、そして突然死に深く絶望したそうです。その後やってきたメディチの娘マリーは自分より大柄で凡庸でした。ガブリエルがより不憫にもおもえます。しかしながら多産系のマリーはしっかり後継をのこしブルボン家の安泰に寄与します。ところがその後アンリ4世は何者かに暗殺されました。ヨーロッパの歴史は恐ろしい。

🔳 Gabrielle d’Estrées

1594頃『ガブリエル・デストレとその妹』逸名の画家・ルーブル美術館所蔵

​​​​

マリーの長男がルイ13世、アンリの死後わずか8歳で新王となりマリーが実権をにぎりました。しかしその後は母子関係も拗れてルイ13世が成人すると母と子の戦争となりました。フランス文化を世界が崇める存在まで築きあげたブルボン王朝の初代国王アンリ4世、王妃、そしてルイ13世の幸せそうな作品がありましたので1枚紹介します。アンリ4世が暗殺される直前の情景だそうです。なんども思惑により描き直されたそうですが、こんな作品が一番が見ていてほっとしますね。

🔳Henry 4th 1625頃『摂政移譲』

〜マリードメディシスの生涯より〜

ルーベンス・ルーブル美術館所蔵

▪️アンリ4世、マリー、ルイ13世が仲良く描かれています〜

ルイ13世にとってリシュリューは枢機卿であり宰相。フランスの国威発揚には欠かせない存在であり二人三脚で王権強化につとめました。というより政務はリュシュリューにまかせ自分はヴェルサイユの小村に入り浸って狩猟を楽しんでいたようです。そして太陽王ルイ14世の出生の秘密も乗り切りフランスは絶頂期を迎えることになります。

🔳Louis 13th:1635 年『ルイ13世』1639年『リシュリュー』

フィリップ・ド・シャンパーニュ画:ルーブル美術館所蔵

政治と文化は密接な繋がりをもっています。この17世紀前半に活躍したルーベンスは外交官としても活躍しスペインのフィリップ4世と英国チャールズ1世からナイト爵を授かっています。フィリップ4世の王妃(エリザベート)もチャールズ1世の王妃(ヘンリエッタ・マリア)もマリードメディシスとアンリ4世の娘でした。どのような母子の会話があったのだろうか、なかったのだろうか。

・ピーテル・パウル・ルーベンス:1640没

・マリー・ド・メディシス   :1642年没

・リシュリュー枢機卿     :1642年没

・ルイ13世         :1643年没

このあとフランスはリシュリューの継承者マゼラン宰相のサポートを受け4歳のルイ14世が即位します。太陽王と呼ばれ72年間も君臨し大世紀を迎えます。

ブルボン王朝の歴史的人物が繰り返し見たであろう絵画群、彼らが表情や衣装やポーズまでくまなく見たであろう絵画たちを、同じ距離感で鑑賞することができました

作品を通して自分と同じ位置にいる400年前の彼らと向き合えたのかもしれません。ナイトミュージアムで歴史に思いを馳せることができました。

東京文化LC

L城戸正幸

JAZZへの誘い(いざない)vol.1

JAZZって何だ~        (お断り 本文中の人名は謹んで敬称略とします)

ひとくちにJAZZと言っても、その有り様はその姿や形において様々です。JAZZZ好きの人は多く見かけますが、どのアーティストのどの曲が好きか?なぜ好きか?と問いても その答えは様々で百家争鳴です。自分自身は40歳前ににサックスフォンを買って、

習い始めてから、(練習不足でなかなか上達しませんが…)沢山のアルバムを買い集めて深く聴くようになりました。特に若い頃は JAZZはうす暗い空間でウイスキーグラスを片手に煙草を燻らしながら聴くもんだと勝手に思い込んでいたものです。。

 但し 学生時代に先輩のアパートの部屋で聴いた ジョンコルトレーン(サックス)の「BALLADS」バラードというアルバムには心を奪われ、痺れました。

私の生まれ育った東京都下の吉祥寺では 今でも営業を続けているファンキー、

メグ、サムタイム(ライブハウス)などのジャズ喫茶に高校生の時分によく出入していたのですが、それは音楽を聴くためではなく、珈琲を飲んで友人と会話するときのBGMという位置づけの音楽でした。

改めてJAZZって何だ?の副題に戻ります。楽器を手に取って 練習を重ねて徐々に分かっていくことですが、JAZZを音の仕組みや裏拍子、アクセントのつけ方、リズムパターンといった音楽的な形式によって 明快に定義できれば便利なのですが、なかなか複雑なうえ 加えてJAZZの機能のひとつにアドリブ(即興演奏)があります。しかしながら これらはJAZZの魅力の全てをカバーするわけでもなく、またJAZZはSWINGする音楽だという言われ方もしますが、ノリの世界~SWINGとは何だ?これまた定義づけするのは難しいように思われます。

ひとつ言えることでJAZZは黒人音楽の中からアメリカで生まれて、年代と共に変化してきた音楽ではあります。

黒人音楽のブルースを基本として、特に20世紀初頭のニューオリンズのJAZZはそれまでのブラスバンドのマーチやブルースに即興演奏を組み合わせたもので、例えばレイチャールズの伝記映画「RAY」のブラスバンドの「聖者の行進」のシーンに当時の面影を見ることができます。

日本のジャズシーンは戦後になりますが、進駐軍クラブから、原信夫、ジョージ川口、小野満 渡辺貞夫 秋吉敏子ら後に名を成すジャズメンが育っていきました。前述したコルトレーンの次に アルバムを買い集めて聴き入ったのは トランペット奏者のマイルスデイビスでした。

次回はさらに深堀して ジャズボーカルやボサノバなどを紹介したいと思います。

L河田弘昭

東京文化リレーコラム・蕎麦屋巡り 四軒目

更科 堀井総本家

四軒目は麻布の御三家 更科堀井です。麻布十番にある御三家更科はのれん分けなどで「更科 堀井総本家」「永坂更科 布屋太兵衛」「麻布永坂 更科本店」と三店あり少々混みいっています。

まずは本家筋の堀井から紹介です。

麻布十番は麻布界隈にお住いの方々の商店街で上品なお店が多くあります。最近は六本木ヒルズ開発などでにぎやかになり南北線や大江戸線も通るなど行きやすい街となりました。

さて、更科堀井ですが麻布十番の中でもけやき坂寄りにあります。いつ行っても人気店のためお客様で賑わっています。本店のほかに立川店、日本橋高島屋店があります。近頃ではニューヨークにも出店しました。

下町の蕎麦屋と違い家族連れや六本木のお客様が多いお店

永坂更科のヒストリー

永坂更科は1789年に麻布永坂町に初代布屋太兵衛(堀井清右衛門)が「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」を開業したことから始まります。その後代々堀井家が営業してきましたが、昭和の大恐慌で一度廃業しました。

これがきっかけで3店舗がランダムに永坂更科が生まれてしまいます。

まず、昭和23年に料理屋の馬場氏が「麻布永坂 更科本店」を七代目堀井氏より許可を得て開業。次に小林玩具店小林氏と麻布十番商店街の組合長木村氏、七代目堀井氏の出資した法人が設立され「永坂更科 布屋太兵衛」の店が開業されました。その後七代目堀井氏は出資を引き揚げますが、昭和59年に八代目堀井氏が「総本家 更科堀井」を開業し現在に至っています。

鴨焼き
野菜天種
赤坂生ビール

それでは布屋太兵衛の血筋をもつ堀井家の蕎麦をご紹介いたしましょう。

お蕎麦の前にまずは赤坂生ビールとつまみ、鴨焼きと野菜天種をたのみます。

鴨焼きはテーブルで焼く本格派、紙エプロンも提供されます。

上質な鴨を焼きたてで頂くのは珍しいですね。蕎麦は元来、天ぷらや鴨の油が良く合います。

天ぷらは種類も豊富で今回は野菜種をたのみましたが、このほかにも海老天種、小海老天種、かき揚げもあります。

もちろん老舗のあかし「そばがき」や「焼き蕎麦みそ」もあります。

蕎麦屋飲みには十分なメニュー延々と飲み続けられそうです。

「さらしな」 
「太打ち」

仕上げのお蕎麦は看板の「さらしな」と「太打ち」

「さらしな」は永坂更科の特徴 更科粉の白いお蕎麦とあま汁の組み合わせ、上品で細い麺とあま汁がベストマッチです。

一方「太打ち」は挽くるみの十割そば粉です。見ての通りうどんのように太いのが特徴で

から汁に合わせて頂きます。風味が豊かな田舎風蕎麦です。

両方の蕎麦が反対の性格ですが、更科堀井ではこのほかにももりそばと季節の変わりそばもあります。次回訪問時は是非食べたいと思います。

更科堀井は休日がほとんどありません。麻布十番に出向いたり、蕎麦が食べたいなと思ったりしたら、ちょっと立ち寄るのはいかがでしょう。

次回は永坂更科の2店目更科本店へ伺います。

総本家 更科堀井

電 話 : 03-3403-3401

住 所 : 〒106-0046  東京都港区元麻布3丁目11−4

営業時間: 平日【昼の部】11:30~15:30(L.O.15:00)

【夜の部】17:00~20:30(L.O.20:00)

土日祝 11:00~20:30(L.O.20:00)

定休日 : 日曜日(祝祭日は営業)

URL    : https://www.sarashina-horii.com/azabu/

ヒストリーライオン『どうした家康・なにした家康』【徹底解説!「五奉行」と「五大老」という存在】

みなさんこんにちは!


東京文化ライオンズとヒストリンクの歴獅子コラボ企画「ヒストリーライオン、どうした家康、何した家康」のコーナーです。

NHK大河「どうする家康」もいよいよ佳境に入りました。前回の放送では
徳川と豊臣の緊張感が高まり、直接対決の時がいよいよ間近に迫っていますね。
今回は直前大特集ということで、天下分け目の大いくさ「関ケ原の戦い」に至るまでの経緯を紹介します。

日本史の教科書で登場した「五奉行」と「五大老」という存在。
そもそも彼らは何者で、どのようなパワーバランスを持っていたのか?
それがどのように関ケ原の戦いへ繋がっていくのか
こちらを徹底解説致します!

【関ケ原の戦い】
そもそも関ケ原の戦いとは豊臣秀吉の死後に起こった
「元・五奉行筆頭の石田三成」と「五大老筆頭の徳川家康」との権力争いです。
1600年(慶長5年)9月15日、現岐阜県の美濃国関ヶ原にて勃発しました。

秀吉の死の直前、跡取りである秀頼は六歳と幼いため秀吉は行く末を大変憂いていました。
このままでは(歴史に数多くあるように)誰かに政権を乗っ取られてしまう。
秀吉はその危惧感から、直属の部下である「五奉行」と有力大名「五大老」の十人が
共に豊臣政権を支えていく制度を整え、口頭や書面を使い何度も何度も「秀頼を頼む」と十人に伝えていました。

五奉行のメンバーは秀吉の直接の家来であり、今風にいうなら官僚的存在。

石田三成(佐和山19万石)
前田玄以(亀山5万石)
浅野長政(甲府22万石)
増田長盛(郡山22万石)
長束正家(水口5万石)

といったメンバーです。
対する五大老は
豊臣家以外の有力武将である以下五人

宇喜多秀家(57万石)
前田利家(北陸など83万石)
上杉景勝(奥州など120万石)
毛利輝元(中国地方8か国120万5千石)
そして徳川家康
(関八州255万石)

といった顔ぶれでした。
石高の比較から雰囲気が伝わるかもしれませんが、
二つの立場には明確な違いがあります。
五奉行はあくまで秀吉の部下でしたが、
五大老に関しては五奉行とはまた異なる政治的な立場を持つ武将たちでした。
(※五奉行は官僚、五大老は軍事も行う政治家のような存在といえましょう)

その中でも家康は飛び抜けた石高を持ち、
官位や官職も他のメンバーよりも一段高いところにありました。
前回の放送で前田利家が諭すように喋っていたように、
戦国終盤のこの時期には武田信玄や上杉謙信などの猛将たちは既にこの世になく、
次の世代への代替わりの中で、彼らや織田信長などを知る歴戦の兵はもはや家康や前田利家くらいになっておりました。
特に家康はかつての信長の対等な同盟相手であり発言力も豊臣政権の中で随一のもの。
これをきちんと牽制できるのはもはや利家だけとなっていたのでした。

そんな家康に秀吉は当然危機感を覚えており、秀頼の行く末を案じていた秀吉は、
秀頼と家康の孫娘(千姫)とを婚姻させるなど
徳川と豊臣家の融和を積極的に図っていました。
自らの亡き後の豊臣政権は簡単に家康に食われてしまう。その未来図が痛いくらいに想像できたのでしょう。

しかし、このような必死の取り組みが水泡に帰す致命的な亀裂が豊臣政権に入ります。
それは朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の後始末に端を発する
「文治派VS武断派」の争いのことです。
朝鮮出兵に行かされた加藤清正・蜂須賀家政・藤堂高虎
などの武将は出兵先で大変な苦労をかけさせられ、それに対する奉行方からの恩賞もなく大変遺憾に感じていました。
更には1598年(慶長三年)の秀吉死去のタイミングで国内にいなかったことから、その隙に権力を増した五奉行(特に石田三成)との対立が決定的になったのでした。

この不穏な空気を家康は巧みに利用しました。派閥争いを利用して
「文治派(石田三成)VS武断派(反三成・親徳川家康)」
の構図を作った家康は、武断派の諸将と私的な婚姻関係を進める(※これは軍事同盟を結ぶに等しい行為です)などして水面下に準備を開始し、
秀吉死去の翌年である慶長四年、前田利家死去のタイミングを見計らって
ゆっくりと行動を開始するのでした。
「奥州にいる上杉家、豊臣家に謀反の疑いいり!」として、
背中をわざとガラ空きにして東へ向かうのです…!

次回の大河ドラマ「どうする家康」では
家康と旧知の中であった鳥居元忠のエピソード(伏見城の戦い)がありますので
どうぞお見逃しなく!


【ご参考】
☆どうする家康HP
https://nhk.or.jp/ieyasu/
☆ヒストリンク
https://historyenjoy.com

関ヶ原の戦いが起こるまでの伏線と経緯4つ 西軍の敗因とその後の動き
https://benesse.jp/contents/history/sekigaharanotatakai/
【戦国こぼれ話】なぜ関ヶ原合戦は、関ヶ原で戦うことになったのか。誰も知らなかった意外な理由
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/85a59917bfb20a4eac11af89538912bae0e2e32d

【文責】
東京文化ライオンズYCE委員会・地理歴史研究班所属、鈴木慎平
協力:徳川家を楽しむ会(歴史研究者とのマッチングサービス)
連絡先:yanaka.labo@gmail.com
歴史団体ヒストリンク・歴史を楽しむ会 代表 斎藤太一
連絡先:histlink.pro.fan@gmail.com

文化リレーコラム・日暮里 芸工展と江古田まちの芸術祭

みなさんこんにちは!

ライオンズメルマガにて歴史獅子歴史企画を担当させて貰っております鈴木慎平です:)

今回は僕のもう一つの活動である地域の寺子屋×アート活動を紹介させてください。10月の期間中、二つの地域のアート展にてスタッフ参加をしていました。日暮里地域の「芸工展」と江古田地域の「江古田まちの芸術祭」です。

本記事ではそちらの紹介を致します✨

【日暮里の芸工展とは】

芸工展(げいこうてん)は、10月の1か月開催されるイベントで今年25周年を迎えました「まちじゅうが展覧会場」をキーワードに地域に暮らす人々の創作活動をとりあげ、街の中にアートが溶け込んだ1ヶ月間となる催しです。自分は2020年から参加させてもらっており、「ハロウィン盆踊り」や「芸工展中間報告会」などを企画。今年はツイッター担当として運営広報やパンフレットの文字校正や看板設置などをさせてもらいました。

【江古田のまちの芸術祭とは】

こちらは2011年-2018年に日本大芸術学部OBらが中心となり開かれた「江古田ユニバース」というイベントが発端となったもので、「江古田をアートの町にしたい!」そんな夢を持った人達が集まって、様々な町の人と協力して演劇、映像などの上演、音楽の演奏、美術作品の展示などを行っているものです。メンバーの多忙のため中断になっていたものを2020年から町の店舗の方々の協力のもと「まちの芸術祭」として復活しました。

本年は10/28(土)ー11/5(日)まで。現在開催中です!
自分は地域のイベントバー「moja」と一緒に活動しながら
「江古田ECOコスプロジェクト」(コスプレごみ拾い)や「江古田ネオ盆踊り」(アニソン盆踊り)などを共同企画させてもらっています。
江古田地域には
武蔵大学、日大芸術学部、武蔵野音大などがあり、街とアートが溶け込んだ密度の濃い一週間となります。

このように、二つの地域で「街×アート」の取り組みに参加させてもらうと、
似た部分・違いのある部分が見えてきます。

○似ているところ
出展者への告知の苦労話。
たとえばデジタルだけだとアナログ派の地域の方へ告知が回らない。連絡網のようなものを作り確認しなければならないことや、
「一度告知を回しても、そこですべての情報が回るわけではない問題」など。

○違うところ
「地域性の違い」なども面白く感じます。
日暮里芸工展は対象地域が広く、参加団体も多いです。
25周年を迎えたこともあり、長さとしては日暮里地域の「芸工展」のほうが続いています。
しかし開催が話題を呼び、あまりに大きくなりすぎた運営は数年前に方針の混乱を招いてしまい、以降企画全体の規模を抑え気味になったという経緯がありまして、現在では落ち着いた・以前のような文化祭的なお祭り感覚が少なくなったという声も聴きます。


江古田の芸術祭は、近場に三つの大学があることもあり企画に勢いがあり活気を感じることが多いです。地域も江古田駅周辺にコンパクトでまとまり、一日で歩いて回ることが可能です。
江古田は西武鉄道とのコラボを行なっているのも特徴で、芸工展も以前はJRと行っていたのですが現在は一旦取り止めています。

このようにそれぞれに魅力や特徴の違いがありますが、地域の取り組みと店舗や個人が結びついてアート表現をしていく流れはこれからの社会に極めて大切なことだと感じております。
昨今の世の中は「個人主義」が行きすぎてしまう場面もあり、隣に住んでいる人が誰かすらわからない状況はまずいようにも思います。


そんな中で地域のお祭り事に自然参加する中で繋がり合えば、普段の防災意識や年配の方の安全の確認にもなります。

世代を超えて話し合える機会が増えれば、文化の継承や新しい形での循環が生まれていくことにもなります。

「家」や「学校や会社」だけでない
「第三の場所」として地域を意識する。
楽しいことを行いながらも社会貢献していくという意識のあり方が
今後のロールモデルとして大変重要に感じます。
垣根を乗り越えて敢えて踏み込んでいく。
そんな流れがまちの取り組みの中から生まれてくることを期待しております。

日暮里のほうは終わってしまいましたが、
江古田に関しては11/5(日)まで開催しております。
11/4(土)には夕方に駅前で子供に向けたハロウィン盆踊りを、日中は武蔵大学の学内にて僕たちの地域活動の展示をさせてもらいます。
宜しければどうぞお越しくださいませ!
↓こちらからパンフレットもダウンロードできます
https://ekogei.org/

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【参考】
日暮里 芸工展2023
https://www.geikoten.net/
江古田のまちの芸術祭
https://ekogei.org/
江古田の街をアートで一色に 駅周辺で「芸術祭」 過去最多105の催し、11月5日まで
https://www.tokyo-np.co.jp/article/286491

上野恩賜公園開園150周年総合文化祭レポート

上野恩賜公園開園150周年総合文化祭を満喫!

ライオンズの皆様、上野公園が今年で150周年ということをご存知でしたでしょうか?

2023年10月19日~22日の間、上野恩賜公園で「上野恩賜公園開園150周年総合文化祭」が開催されました。聞くところによると4日間で約200万人が来場したそうです


上野恩賜公園開園150周年総合文化祭
https://www.tokyo-park.or.jp/uenopark150year/


私は21日(土)の午前に様子を見に行きました。まずは噴水前広場の特設ステージで開催されたオープニングイベント。上野公園のマスコットキャラクター「うえのん」をイメージしたうえのんダンスを見ました。地元の高校生たちによるオリジナルの作曲とダンスがお披露目されました

うえのんポーズをとる地元高校生のダンス部

公園内を散策しながら、様々なイベントを体験しました。会場は多くの外国人の方でも賑わい、上野にゆかりのある各団体がテント出店しておりました。

会場内テントの様子

外国の方も多く来場されてました

下町風俗資料館では、昔の上野公園界隈の写真が展示されていました。見たことのある写真だったのですが、大きく引き伸ばされてみる写真は新鮮で気づかなかったところがたくさんありました。等身大といいますか、大きさが変わると入ってくる情報量も異なりますね。

下町風俗資料館展示

上野公園内にある五條天神社様はお茶体験を開催していました。心を落ち着け自らを振り返る時間を持つことができました。

お茶と言われて、やり方がわからない部分もありましたが、アドバイスをいただきながら落ち着いてお茶を楽しめました。

五條天神社様ブースにてお茶を体験させていただきました

五條天神社様の天井の絵図も月に一度観覧できるということです。

上野動物園前の出張郵便局テント

上野動物園前ではパンダポストも”家族連れ”になっていました。

パンダポストも家族連れで楽しそうです

特に印象に残ったのは、森の中のツリークライミングです。そう、木登り!

注目を浴びるツリークライミング

最近の公園は規制が多いイメージだったのですが、このブースを見てびっくりしました。

安全に配慮した上で行っています

森といえば、やはり木登りというイメージがありますが、安全に配慮しつつ実現されているとことがとてもアートだと思いました。公園やまちが変わり続けていく様や子どもたちを、この大樹は温かい目で見てくれている、そんな気がしました。

子どもたちも楽しく、大声を出しながら木登りをしていました。

トーハクや科学博物館、横山大観記念館などの上野に関わる文化施設や多慶屋さん、小池屋さん、上野のれん会さん、キッチンカーの出店など上野に関わるまちの商店も多数出品されていました。

上野公園の真ん中に上野のそのものの縮図が出現したようでした。多くの人で賑わった、まさに芸術の秋真っ只中のイベントでした。


感想

上野恩賜公園は、東京を代表する公園であり、多くの人々に親しまれている。今回のイベントは、そんな上野恩賜公園の魅力を再発見できる機会となりました。上野公園の各文化施設とまちの名店が一挙に集まる贅沢なイベントでした

上野恩賜公園開園150周年総合文化祭
https://www.tokyo-park.or.jp/uenopark150year/

L一ノ瀬健太

日本にはこんな祭りがあったのか!?愛媛の秋を彩る「西条まつり」

西条祭りの名物「川入り」の様子

新鮮な驚きとともに!

どうもL一ノ瀬です。今月、家内の実家に帰省したのですが衝撃的な体験をしてきました。

日本には、こんなに素敵なお祭りがあるのかと!まさに新鮮な驚きでした!その際に体験した、ふたつのお祭りをレポートいたします。

まさに祭りは文化の縮図。感動体験が凝縮された時間を楽しみました。

さて、愛媛県の東予地方には、毎年秋に「西条まつり」と「新居浜太鼓祭り」という2つの大きな祭りが開催されます。どちらも国の重要無形民俗文化財に指定されており、全国的にも有名な祭りです。

今回は「西条まつり」の様子をレポートいたします。「新居浜太鼓祭り」は来月にレポートをお届けいたします。

西条祭り
http://www.saijomatsuri.jp/


愛媛・西条祭りの魅力を徹底解説!

西条祭りは、愛媛県西条市で行われる秋の伝統的な祭りです。五穀豊穣を神に感謝する神事で、伊曽乃神社、嘉母神社、石岡神社、飯積神社の4つの神社の例祭の総称です。

祭りの目玉は10月16日の「川入り」で、各だんじりが市内と伊曽乃神社の間を流れる加茂川河川敷に集合します。夕闇迫るなか神様の御神輿の渡御を見送ろうと、約80台余りのだんじりが土手にずらりと一列に並び提灯を灯す様は幻想的で壮観です。

「川入り」へ向かう神輿とだんじり

私は名前だけは聞いたことがあったのですが、恥ずかしながら今まで西条祭りを調べずこれまで生きて参りました。こちらのお祭り、本当に圧倒されました。

秋風とともに宵闇に灯される壮観な日本の美に心を打たれました。感動。。。!!!

まちなかを練り歩くだんじりの様子
徐々に暗くなっていく河川敷の様子
河川敷に向かうだんじりの様子

屋台(だんじり)の魅力

西条祭りの屋台は、高さ10メートル、重さ10トンにもなる巨大な木造建築物です。精巧な彫刻や装飾が施されており、その美しさに目を奪われます。

屋台は、市内20か所の地区ごとに制作され、それぞれに異なるテーマが設定されています。なかには、江戸時代から続く伝統的な屋台も多く、歴史を感じることができます。

広場で休憩するだんじり

なんといっても、一番の見どころは夜間の屋台のライトアップ。幻想的な光に照らされた屋台は、昼間とはまた違った魅力があります。

出店の様子。

出店も多数出品していて賑やかでした。サメ吊りくじ引き(リアルなサメの模型を釣竿で釣り上げ、中のくじを引くというもの)が賑わっていたのが印象的でした。

川入りに向け徐々に人が集まります

だんじりの練り歩きを近くで見てその威勢の良さにドキドキワクワクしました。迫力ある音と、華やかなその姿に、思わず見惚れるほどでした。はじめは遠くで見るつもりだったのですが、いてもたってもいられず、家内と娘をほおっぽり出して(反省)川べりまで迫って見てしまいました。

遠くから見る「川入り」の様子

祭りの見どころ「川入り」

西条祭りの見どころは、なんといっても「川入り」です!私はこれに心を奪われました!!!まさに全身が感動しました。

市内を流れる加茂川の河川敷に、武士の透かし彫りや金の刺繍などできらびやかに飾りつけられただんじり約80台が、かねや太鼓を打ちならしながら集まり…

日が沈んだ午後7時ごろ「よいやさ」という勇ましい掛け声にあわせ、だんじりが次々と川に入っていきます!!!

これは近くで見なければ、一生後悔する!!と私は走って河岸に向かいました!

この「川入り」は、神様の乗ったみこしをだんじりで取り囲み、帰りを遅らせようとするもので、祭りの終わりを惜しむ行事となっています。

こうした神様とともにあろうとする日本文化あり方に私はとても共感を覚えます。

土手に並ぶ夜間の屋台のライトアップもとても幻想的でした。本当に綺麗なんです。もう、最高。言葉じゃない。闇夜に浮かぶ屋台の姿は、まるで夢の中にいるような気分になりました。

そして、祭りに参加している地域の人々の熱気も、とても印象的でした。屋台を引く人たちの力強い姿や、沿道で祭りを楽しむ人たちの笑顔に、心が温まりました。

男女ともにお祭りの時はとても凛々しくかっこよく見えます。祭り、っていいですね。超楽しい!!!

今回撮影した「川入り」の映像
https://photos.app.goo.gl/NkQGS9FtahRsiowm9

コロナがあけ久々のお祭りだったとのことで、とてもタイミングが良かったです。ライオンズメンバーの皆様も機会があれば、ぜひ西条祭りを訪れてみてください。

日本が誇る秋祭りの魅力を、存分に味わうことができます。

西条祭り
http://www.saijomatsuri.jp/

来月は、新居浜太鼓祭りをお届けします

L一ノ瀬健太

【10月の例会訪問】つくばOAKライオンズクラブ・アート支部の皆様と意見交換

10月の例会では、美味しい秋の味覚を堪能しながらアートに関する意見交換をさせていただきました。つくばOAKライオンズクラブ・アート支部様からはピアニスト、サックス奏者、フラワーアーティスト、障害科学者など実に多彩な才能あるメンバーにご参加いただきました。

今では高級魚となってしまった秋刀魚。美味しくいただきました。

芸術の秋、味覚の秋を一挙に堪能できた素晴らしい夜でした。

東京文化LCでは引き続きアート関係に従事するライオンズメンバーの皆様との交流を行ってまいります。

Mature紀行③バルビゾン村

パリから南へ約60キロ、美しい田園風景を抜けていき広大な農地にやってきました。だれもが見たことのあるような情緒あふれる農場です。ノスタルジアを感じているうちに左にかけてあるモザイク画を見るとその情感はそこはかとなく膨らんで行くのではないでしょうか。

■ミレー『晩鐘』の農地

19世紀のフランスの風景画家グループがこの村に集い活動をしていたため彼らは”バルビゾン派”と呼ばれていました。この時代、チューブ絵具の発明により戸外での自由な写実ができるようになり芸術家たちはたちはこの村の美しい自然の中で写生をはじめました。

この村では画家ミレーのアトリエ謙住居が有名ですのでさっそく訪れてみましたが、敷地内には誰もおらずお休みかとおもったところ、ミレー―の子孫であるという管理人さんがちょうどお昼休みから戻ってきて鍵をあけてくれました。故に流れとしては私とガイドさん2人でアトリエを独占できるという幸福な時間を過ごすことができました。ここにはデッサン画が残されており『晩鐘』『落穂ひろい』にさしで対面することができました。

■ミレーのアトリエ(筆者)

中学時代に初めてミレーの絵画を見てコピーを部屋に飾っていた私にとっては感無量、予想だにしなかった展開でした。田園風景がとても寂しく、地平線がとても遠く、この農地は彼らにとっては途方もなくひろく過酷であったであろうと。モノクロ写実のすごみにくわえ、『落穂広い』の下にある木靴が物語ります。硬くて、重くてこれでは足の皮膚は固くなりマヒしていたに違いありません。たくましく生きる農民に宗教的意味合いを持たせた、崇高さを表現したと言います。アトリエを見ていくうちにさらに感動したのはゴッホのコメント。ゴッホはミレーを尊敬し、複製を手に入れ何度も模写することによって自身の画家としての境地を切り開いていったそうです。パンフに記載の英語では”For me,it is Millet, the essentially modern painter,thanks to whom the horizon has opened up for us”とゴッホが言ったと書いてあります。

■Mille vs Van Gogh

もうひとつ紹介したいのが村の美しさです。この村の人口は約1500人あまり、世界中から観光客がくる事で有名であるというものの夏のとある日曜のお昼時、村の中心がこのような人通りでした。19世紀のレンガ造りの家屋を見ながらゆっくり石畳を歩くと心がみたされます。昭和天皇が訪れたという由緒あるレストランもゆったり。他のお客さんから話しかけられてきます。「来年東京にいくけどどこかおすすめですか」と「あなたたち(バルビゾンを楽しんでいる文化好きのあなたたち)はきっとUENOが好きですよ。」と”Oh, U-E-NO、 Thank you!  We should go to UENO.”と楽しかった会話が思い出されます。

■ゆったりバルビゾン村歩き

バルビゾンの美しい村に高揚し そのおかげで感性も研ぎ澄まされ すばらしい作品群に出会いました。現代のバルビゾン派Herve Turpinという画家です。自然や森を描くその光と色づかいが私の情緒感をたっぷり楽しませてくれました。ミレーのアトリエの出口付近に飾ってありましたので紹介します。19世紀にくらべるとすこし幸せの予感がします。

■現代のバルビゾン派Hervé Turpin,

東京文化ライオンズクラブ

L 城戸正幸