ヒストリーライオン『どうした家康・なにした家康』の第四号

皆さんこんにちは!

東京文化ライオンズクラブと歴史探求団体「ヒストリンク」のコラボレーション企画
ヒストリーライオン『どうした家康・なにした家康』の第四号を配信いたします:)
大河では姉川の戦いが終結し、いよいよ武田信玄との直接対決の時が迫りつつありますね。
今回のトピックでは前回までの放送を振り返り、以下三点

・三河一向一揆
・今川家の滅亡
・戦国時代のお菓子金平糖

これらについてエピソードを交えつつ解説します!
お楽しみください♪

【①三河一向一揆】
ドラマでは三週に渡って行われた一向一揆のエピソード。
こちらを史実に基づいて解説します。

三河一向一揆は
永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)にかけて行われた
約半年間ほどの三河領国内での戦いです。
一揆のきっかけとなった出来事には複数の説がありますが、
主に「治外法権であるはずの寺社内に家康配下の武士が立ち入った」ことが原因とされています。
年貢の納入を拒否された・犯罪人を捕まえるために侵入したなどの説があり、
家康側の気持ちも分からなくないのですが、当時のお寺は大名の支配とは異なる独自の権力として
存在していたためこれは家康側の明確なルール違反でした。
ドラマで描かれていたように、三河の一向一揆への対応で家康は家臣団が大きく割れての大騒動になりましたが、
結果としては領国内に存在した如意ならざる存在を徹底的に排除するきっかけとなりましたので、
後々のことを考えると怪我の功名ともいうべき戦いとなりました。

中世当時の日本では土地の支配制度・権利関係は極めて複雑で、
領主が領国内を一括で統一する体制にはなっていませんでした。
(※歴史用語ではこの重層的な土地所有関係は”職の体系”と呼ばれています)
一向一揆衆も当然のごとく不入不輸の権利を持ち、寺社同士のネットワークも存在していましたから、
そのような如意ならざる存在が国内に複数ある状態では国の統治はままなりません。
ですから織田信長も一向一揆の存在には頭を悩ませていましたし、
最終的には寺社を焼き討ちしてまで自国の支配権を確立させたのでした。

なお大河ドラマでは一向一揆の結末として「元の原っぱに戻す」という頓智のような話を持ってきましたが、
こちらの元ネタは『三河物語』の中に登場します。
一般的にはこのエピソードがあるから「徳川家康は腹黒である」などと言われたりするのですが、
今回の大河ではこのセリフの発案者を本多正信ということにして松潤家康のイメージとの矛盾を回避したのは
上手な脚本だなと感じた次第です!

【②戦国大名としての今川家とその後の氏真】
偉大な父親の元に生まれ苦悩の連続であっただろう氏真。
その人生をダイジェストで振り返ります。

「海道一の弓取り」と謳われ一大勢力を築いた名君今川義元公。
幼少時代の家康も人質として使えた大人物でしたが、
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで織田信長により打ち取られ
その後の勢力図は大きく変わってしまいました。
今川家を継いだ氏真は父親の築いた地盤を維持することができず、
三河の家康と甲斐の武田信玄の両者からジワジワと侵略を受け、
永禄12年(1569)の掛川城開城を以って戦国大名としての今川家は滅亡してしまいました。

ここで「戦国大名としての」と書いたのは、実は氏真は戦いの中で打ち取られたのではなく、
今川家自体もその後の時代(幕末以降!)まで存続したからです。
今川氏真は蹴鞠の名手であり、天生3年(1575年)には京都へ旅をして
織田信長の前で蹴鞠を披露したという逸話が残されています。
また彼による和歌も数多く残されており
「今川氏真詠草」には428首もの和歌が残されているそうです。

関ヶ原の戦いも終わった慶長18年(1613年)に77歳もの長寿で亡くなるまで
生きた氏真は、晩年には家康の茶飲み仲間にもなっていたと伝えられています。

氏真の歌として
「なかなかに 世をも人をも 恨むまじ 時にあはぬを 身のとがにして」
というものが知られています。
高い教養を誇り多くの人から尊敬されつつの最後であったと聞く晩年ですが、
生まれたのが戦国乱世という「時に合わぬ」時代であったのは氏真の不幸だったのかもしれません。

【③金平糖は”金のお菓子”!?】
小粒でもピリリと甘いあのお菓子のお話です。

ドラマの中で家康はあるお菓子を血眼になって探します。
そのお菓子の名はコンフェイト、そう今でいう金平糖です。
戦国モノのドラマでは織田信長と関連させてしばしば登場するイメージのある金平糖ですが、
史実でも永禄12年(1569年)にポルトガルの宣教師ルイスフロイスによって献上されています。
この頃の金平糖は現代とは異なり、大きめのサイズに白一色のもので、
フラスコに入れられて献上されたそうです。
(ちなみにコンフェイトという言葉もジャムなど果物の保存食全般を表す言葉だったそうな)

「信長のシェフ」という漫画によれば、この頃の日本ではまだ砂糖が国内生産をされておらず、
年間でも150キロほどしか手に入らない状態だったそうです。
だから砂糖は金塊と同じくらいの値段で取引されたという話で、
なんだかこれは「コショウ一粒が金一粒の価値」と言われた大航海時代の香辛料の話とも似ているように感じます。
しばらくはこのように珍重された金平糖などの砂糖菓子ですが、
18世紀の八代将軍徳川吉宗の時代になると国内でさとうきび栽培が奨励されるようになり、
名古屋・和歌山・四国・九州などを拠点に砂糖が大量に国内市場に出回るようになるのでした。
今日の多様な和菓子の形態はこの頃に形作られたとのことです。

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【ご参考】
☆どうする家康HP
https://nhk.or.jp/ieyasu/
☆ヒストリンク
https://historyenjoy.com
金平糖の歴史
https://www.ebisudo-seika.co.jp/hpgen/HPB/entries/9.html
江戸時代の砂糖食文化 砂糖の流通と砂糖菓子
https://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_000274.html

【文責】
東京文化ライオンズYCE委員会・地理歴史研究班所属、鈴木慎平
協力:徳川家を楽しむ会(歴史研究者とのマッチングサービス)
連絡先:yanaka.labo@gmail.com

“ヒストリーライオン『どうした家康・なにした家康』の第四号” への2件の返信

  1. ヒストリーライオン、楽しく拝読いたしました。
    私も歴史好きで、ライフワークの一つは、日本の100名城巡りで、
    昨年4月に雲海の竹田城を攻略し、私流の100名城攻略が出来ました。 今後は200名城攻略です。

      東京ライオンズクラブ所属 

    1. ご拝読賜り感謝致します!歴史を愛し歴史を学ぶ一員としてライオンズの皆様と機会共有できますのを大変嬉しく思います。
      100名城を制覇されたとのこと、大変素晴らしく思います。城の踏破に関しましてはヒストリンクとしても気になるところでして、今度ぜひお話を詳しくお聞かせください♪200城チャレンジ、応援しております!

      L鈴木

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