上野の杜ブログ 「6年ぶり!五條天神社本社御輿渡御」

上野中通り商店街を渡御する様子

コロナ禍を経て、お祭りがまちに帰ってきました。東京文化ライオンズクラブの活動拠点のひとつである上野界隈では五條天神社の例大祭が開催されました。

実に6年ぶりの本社神輿の渡御でした。白馬や巫女舞など見所がたくさんの鳳輦の行列がまちを練り歩きました。

普段歩いているまちの中を千貫神輿が渡御する感覚はとても不思議でした!

宮出しの様子

高揚感で胸が高鳴ります。

商店街を渡御する御神輿に道ゆく人たちが写メを撮ります

宮入りの様子

最後のフィナーレである宮入り、本社神輿を先導してしらたちが歩きます

宮入りの最後はおしくらまんじゅうのように人の熱気で溢れておりました。

最後に御輿を掲げる、”さし”はまさに祭りのクライマックス!!!

江戸っ子たちが多く、すぐにはける様がとても粋でした。

祭りが終わって日常が戻ってきましたが、今も私の肩はとても痛いです。名誉の勲章というのでしょうか。心地いい痛みと日々戯れています。

とても貴重な体験をさせていただきました。

L一ノ瀬

ヒストリンクは何をしているの?

ヒストリンクが企画協力し、岡崎の歴史ファンが集うどうする岡崎家臣団のチラシ画像

歴史研究者とのマッチングサービス・ヒストリンク代表の齊藤太一です。東京文化ライオンズクラブとコラボレーションさせていただきなら、歴史を通じ岡崎市の魅力をアピールする活動をしております。

ヒストリンクでは、岡崎市などが行なっている歴史ファンコミュニティ「どうする岡崎家臣団」の企画協力、岡崎大河ドラマ館応援隊の隊員候補の紹介などを行なっております。

直近では、歴史カードゲーム・ハイストリーと岡崎市をマッチングさせたり、地元の食品メーカーとコンタクトを取ったりと「歴史で地域を活性化」に関わっております。
秋には、ドイツへの遠征も検討しております!

どうする岡崎家臣団は群馬県太田市の菓子店でも、PRされている

大河ドラマ「どうする家康」の波に合わせて、岡崎市で行われる各種歴史講演会やツアー企画への講師紹介・派遣も予定しており、河合敦氏(歴史作家、NHK「歴史探偵」など出演)、大石泰史氏(歴史研究者、「どうする家康」古文書考証)などヒストリンクに協力している方々を繋いでおります。

昨年末に歴史イベントで岡崎市とのつながりができてから、続々と企画が立ち上がりました。
今後は岡崎市をヒストリンクの活動・事業のモデルケースとし、ライオンズクラブはじめ各団体や企業、自治体との連携による歴史まちおこしを加速させて参ります!

大河ドラマ館応援隊の河合敦氏による講演会。家康の人気も高まっている

歴史団体ヒストリンク・歴史を楽しむ会 代表 斎藤太一
連絡先:http://histlink.pro.fan@gmail.com

『どうした家康・なにした家康』人生最大の危機!「焼きみそ・食い逃げ・しかみ像」

皆さんこんにちは!


東京文化ライオンズクラブと歴史探求団体「ヒストリンク」のコラボレーション企画
ヒストリーライオン『どうした家康・なにした家康』の第五号を配信いたします:)

前回のメルマガでは
金平糖の逸話や今川氏真のその後などをテーマにしました。
今号では徳川家康人生最大の危機である「三方ヶ原の戦い」の背景説明と、
あの有名な「焼きみそ・食い逃げ・しかみ像」周辺のエピソードについての解説をします!
また、時期は前後しますが大河では尺の関係ですっ飛ばされてしまった「姉川の戦い」についても補足を。
信長の義兄弟であった浅井長政はなぜ突如裏切ったのか?その解説を致します。
というわけで今号の内容は

【今回のコンテンツ】
①ややこしくて分かりにくい…!?大河ですっ飛ばされた姉川の戦いについて!
②家康がボロ負けした三方ヶ原の戦いについて
最後の部分で
③ライオンズ×歴史団体ヒストリンクのコラボレーション企画の進捗共有
を致します!よろしくお願いします♪


【①ややこしくて分かりにくい…!?大河ですっ飛ばされた姉川の戦いについて!】

姉川の戦いは1570年(元亀元年)6月に起こった戦いで
織田信長、徳川家康の同盟軍が
浅井長政、朝倉義景の両軍と戦った戦です。
大河ドラマ劇中では松潤家康が信長か長政かどちらにつくかで「どうする!?」状態になっていましたが、
(※関ヶ原の伏線になる・・・!?”問い鉄砲”もされていましたね!)
実はこの戦は信長にとっても、また敵方である長政にとっても悩ましいものでありました。

○信長と長政は義兄弟。兄と弟の関係でした
そもそも信長と浅井長政は義兄弟の関係にありました。
信長が美濃の斉藤氏を攻略をする際に近隣の有力者である浅井氏と同盟を組み、
挟撃して斉藤氏を倒そうという魂胆のもとの政略結婚を画策。
そのときにお市の方(信長の妹)が長政のもとに嫁いでいたのでした。
ですから長政は信長にとっての義弟でありますし、信長にとっては彼を絶対に裏切ることのない存在だと考えていました。

しかしながらそうはなりませんでした。
実は、浅井家と朝倉家は信長よりもずっと以前からの同盟関係。
信長と長政が同盟を組む際の条件に
「朝倉家との不戦の誓い」を盛り込んでいたくらいでした。
しかしどういうわけか信長は、この条件を反故にして朝倉氏を攻めてしまったのです。
この時期の信長は足利将軍家の威光を背景に天下に対して号令をかけ始めていましたが、
朝倉義景がこれに呼応せず上洛しなかったのを口実として朝倉の本拠である越前へ侵攻したのでした。

義兄への忠義か、先祖代々の同盟関係への義を立てるか。
長政は二つのジレンマの間で悩みに悩み抜きました。
そして…

元亀元年四月。
信長が朝倉義景の金ケ崎城を攻めている最中に
浅井長政、覚悟の裏切り。

これが全くの想定外であった信長は仰天し、
退路を断たれた絶体絶命の中で、
秀吉と明智光秀に殿(しんがり)をまかせ
命からがらの退却を行ったのでした。

(これが世にいう”金ケ崎の退き口”であり、大河ドラマでは第14話にあたります)
(※家康がこのときにドラマのように殿を勤めたかどうかは記録がなく不明。大河の創作と言えましょう)

本拠に帰り体制を整えた信長は家康と共に浅井・朝倉軍を攻め、
元亀元年六月、これが姉川の戦いになります。
浅井・朝倉方が2万1000に織田・徳川方が3万4000とも呼ばれる大激戦で
今でも現地には「血原」や「血川橋」といった地名が残るそうです。

徳川四天王である榊原康政による側面攻撃などで
この戦いに快勝した信長・家康連合軍は
じわじわ浅井・朝倉の勢力を切り取り、
数年の後にこれを滅ぼすことになるのでした。天正元年、三方ヶ原の戦いの翌年のことであります。
浅井・朝倉の滅亡により、信長の畿内における一強体制が揺るぎないものとなります。
後世の創作ではありますが、『浅井三代記』には義景・長政・長政の父の三名の頭蓋骨で
信長が正月の祝いを行ったとすら書かれていますから、信長にとってその喜びはひとしおだったのでしょう。

一方で浅井長政の、天下を取らんとする義理の兄を裏切ってまで殉じた朝倉氏への恩義の深さにも
どこか感じ入ってしまうものがあります。
天下の情勢に流されるか、義を果たすべきか。
大きな葛藤の中に果てた長政の思いもまた顧みられるべきといえます。

(大河の中でも松潤家康が最後の最後までどちらにつこうか悩むくらいの好男子として描かれていましたね)
長政役の大貫勇輔さんの好演、見事でした!


【②家康がボロ負けした三方ヶ原の戦いについて解説!】

姉川の戦いについて長く書きすぎてしまいました汗
こちら、三方ヶ原の戦いもとても有名な戦いで、「しかみ像」や「馬上の味噌」の逸話などがありますね。
戯画的に面白いエピソードもある中で、しかし戦いの背景や結果など細かな観点から見てみるのも
中々味わい深い戦いと言えます。ここからは大河での描写も眺めつつ、史実に基づいて戦いを概観してみましょう!

三方ヶ原の戦いは
1573年(元亀三年)甲斐国守護武田信玄と三河守(みかわのかみ)徳川家康との間で起こった戦いです。

この戦いの原因は、当時滅亡寸前にあった今川家の所領をどのように扱うかの認識の齟齬にあります。
家康は西から遠江を、信玄は北から駿河を攻める形で今川領土を侵略していったのですが、
その際の境界線を「互いに切り取り次第」として曖昧にしか決めていなかったことから問題が生じてしまったのです。

一般にこの戦いは家康が武田軍の奇策、浜松城の素通りに引っかかり
多くの戦死者を出して潰走した…とされています。
現に大河で描かれたように夏目吉信や本多忠真を筆頭に数多くの味方を戦死させてしまいましたが、
しかし、家康も単純に罠に引っかかったのではなく、
その裏には事情もあったようです。
たとえば本郷和人『徳川家康という人』(河出新書)には、
「家康は信長から佐久間信盛・水野信元など複数の援軍を預かっていたため、場内に籠城を続けることはメンツ的に許されなかった」
という趣旨の記述があります。

氏によれば、城門を開け打ってでて、少しの間打ち合って退却する手筈が、
血気盛んな三河武士があまりに前に出て結果としてそのような罠に引っかかる構図になってしまったということです。
罠であるかもしれないと思いつつも政治事情で踏み込まなくてはいけなかった立場を想像すると、
なんだか複雑な心境になってしまいます。
結果として人生最大の敗戦となりましたから家康は内心忸怩たるものだったでしょう。

大河の中では本多忠真(本田忠勝の叔父)や夏目吉信
の壮絶な最後が描かれ多くの人の涙を誘いました。

夏目吉信といえば、松潤家康がいつまでも本名を覚えられず間違い続けたコメディタッチな演出がありますが、
こちら史実とは言わないまでも元となったネタがあります。
というのも、夏目吉信という名前は歴史の資料には確認されず、
一次資料に出てくるのはいつも「夏目広次」の名前なのです。
これはあたかも徳川家武将の真田信繁が真田幸村の通名で有名であるかのような不思議で、
この実名と通名の違いを巧みに活かしたのが今回の大河のエピソードだったわけです。

【参考①】
「どうする家康」ネット号泣 だから夏目広次の名前を間違えた…初回からの伏線に甲本雅裕も衝撃「マジか」
https://news.yahoo.co.jp/articles/067db12fd0ff2519b42d2694ed713ef9ebd21a90

そのほか、三方ヶ原の戦いには数多くのエピソードがありますが、
書ききれませんのでダイジェスト的にいくつか挙げます。

・酒井忠次の「酒井の太鼓」は愛知県岡崎公園にも石像があるくらいに有名な話だが、
こちらは三国志の諸葛孔明のエピソードから借りた創作である。

・家康の自画像で有名なものに「しかみ像」と呼ばれるものがあり、三方ヶ原の敗戦を痛恨に思い部下に描かせたとされていたが、
この説は誤りで、これは昭和11年に徳川美術館初代館長の徳川義親氏が話したリップサービスが由来。

【参考②】
徳川家康「しかみ像」は慢心の戒めに描かせたのではなかった? 三方ケ原の負け戦(いくさ)とは無関係とする新説
https://www.tokyo-np.co.jp/article/152335

などなど。
さらに挙げるなら、
「勇猛な三河武士は斃れるときも後ろを向かず敵を正面から見据える形で倒れていた」
「家康はあまりの恐怖に馬上で粗相をし、部下にそれを指摘されると”これは味噌じゃ”と返答した」
なども有名ですね!

”馬上の粗相”の話は三方ヶ原を語る上で絶対に外せないエピソードですが、
松潤家康とのイメージのギャップがありましたから、こちらどのように作劇するのかな?と思っていましたが、
なるほど大河19話「お手付きしてどうする」にて上手に処理されていましたね。
つまりはこれを「心無い市井の噂話の一つ」として表現したのです。
しかもそれを吹聴している中に「茶屋の老婆」の姿もあり、
こちらも有名な「食い逃げした家康を追いかけて代金を払わせた」という「小豆餅の銭取婆」の逸話を
上手に取り込んでいます。

大河ドラマには進行上の尺の関係や役者イメージなど様々な制約があるといわれていますが、
そのような条件の中でも既存の説と新説をうまく融合させて表現していく。
「ALWAYS三丁目の夕日」でも有名な古沢良太氏が今回の大河の脚本ですが、
その腕前には毎度唸らされてしまいます。

六月に入ると大河も折り返し地点となりますが、
後半戦もますます大河からは目が離せません!今後もヒストリーライオン「どうした家康、なにした家康」をよろしくお願いします♪

【☆ヒストリーライオンでは質問も募集しております】
今回のレポート・特別篇はいかがでしたでしょうか?
歴史や地理に興味のあるライオン同士で繋がりましょう!
本メルマガでは歴史好きにとって興味深いトピックも詳しく解説していきます。
(例:長篠の戦い、神君伊賀越え、関ケ原などは大注目!)
歴史に興味がある・これから学びを深めていきたい…といった歴史情報に注目されている方がいましたら、
ぜひメルマガの感想をいただけますと嬉しく思います♪
大河ドラマを見ていて疑問に思ったことなども、なんでも質問いただけましたら調査致します。
歴史好きな皆でぜひ交流を深めていきましょう。
よろしくお願いします♪

【③ライオンズ×歴史団体ヒストリンクのコラボレーション企画の進捗共有】

ヒストリンクでは、岡崎市などが行なっている歴史ファンコミュニティ「どうする岡崎家臣団」の企画協力、岡崎大河ドラマ館応援隊の隊員候補の紹介などを行なっております。

直近では、歴史カードゲーム・ハイストリーと岡崎市をマッチングさせたり、地元の食品メーカー(カクキュー)とコンタクトを取ったりと「歴史で地域を活性化」に関わっております。
秋には岡崎市のみなさんの後援を受けつつ、ドイツへの遠征も検討しております!

大河ドラマ「どうする家康」の波に合わせて、岡崎市で行われる各種歴史講演会やツアー企画への講師紹介・派遣も予定しており、河合敦氏(歴史作家、NHK「歴史探偵」など出演)、大石泰史氏(歴史研究者、「どうする家康」古文書考証)などヒストリンクに協力している方々を繋いでおります。

昨年末に歴史イベントで岡崎市とのつながりができてから、続々と企画が立ち上がりました。
今後は岡崎市をヒストリンクの活動・事業のモデルケースとし、ライオンズクラブはじめ各団体や企業、自治体との連携による歴史まちおこしを加速させて参ります!
岡崎にとどまらず、名古屋市の若者グループや大須商店街の方との交流も始まりつつあり、ますますネットワークが広がっていく予感です。
関東と愛知。二つの土地から歴史コンテンツを盛り上げ、日本の教育全体も明るくしていきますのでどうぞよろしくお願いします♪


【ご参考】
☆どうする家康HP
https://nhk.or.jp/ieyasu/
☆ヒストリンク
https://historyenjoy.com

歴史人 約束違反に激怒したのは家康の方だった 史記から読む徳川家康⑫
https://www.rekishijin.com/26706/2
柴田理恵、『どうする家康』団子屋の老婆を演じて 「今の世の中も変わらない」
https://realsound.jp/movie/2023/05/post-1330808.html
「どうする家康」三方ヶ原逸話“回収”団子売りの老婆 番組CPも唸る作劇 柴田理恵の起用「愛らしさ」も
https://news.yahoo.co.jp/articles/c3f4ab89cefa391c91c590312c9b3d82f4e42af1

【文責】
東京文化ライオンズYCE委員会・地理歴史研究班所属、鈴木慎平
協力:徳川家を楽しむ会(歴史研究者とのマッチングサービス)
連絡先:yanaka.labo@gmail.com
歴史団体ヒストリンク・歴史を楽しむ会 代表 斎藤太一
連絡先:http://histlink.pro.fan@gmail.com

コロナと生の演奏会・ライブと

L浦田です。みなさまこんにちは。

東京文化ライオンズクラブは、『文化芸術で社会を豊かに』というスローガンに掲げています。メンバーの心を豊かにすること・文化芸術への支援や応援が、ライオンズクラブの垣根を超えた社会への貢献と考え、年間を通し、音楽例会や美術館鑑賞例会を行っております。

そんな中、私にコラムのバトンが渡ってきました。

私はオーケストラの運営・制作を行っている、という職業柄、今回は、『生演奏鑑賞のススメ』を書かせていただきます。

およそ3年前、新型コロナウイルス感染症拡大の影響により緊急事態宣言や外出自粛、不要不急の外出を控えるなど、社会全体が停滞しました。残念ながら音楽は『不要不急』の対象でした。音楽に限らず、エンターテインメントなどの各業界が大打撃を受けました。それは、エンタメ従事者の活動自粛や休業だけではなく、『聴き手・鑑賞者』にとっても見えない打撃でした。

このコロナ期、有料・無料それぞれの配信企画が増えました。

”おうち時間”を有効に使い各家庭で鑑賞できる、そして見たい時に見れる、といった非常に良いとこだらけです。

私自身もこの配信というものをやってみたいと思い、かつ、日本中の音楽家へエールを送りたいと思い、星野源さんの『うちで踊ろう』プロジェクトに乗っかり、日本中のオーケストラ奏者をタッグをくみ、リモート演奏会という形でYOUTUBEで公開しました。

ここにリンクを貼っておきます。

もし、機会があればみていただければと思います。

話は戻ります。

もちろん、最新のテクノロジーを駆使し、場所や時間、環境に左右されず、各地のお客様へ見て頂ける、聞いて頂けるのはとても素晴らしいし、聴き手にとってもこれは嬉しいことです。

ただ先ほど申し上げた”『聴き手・鑑賞者』にとっても見えない打撃”とは、配信に慣れすぎてしまっている、というところにもあります。

コロナも終息に向かう今、緊急事態宣言等も発出されておらず、社会が回復しエンタメ業界にも漸く活気が戻ってこようとしているこの今、せっかく今しか見れない、今しか体験できない、という環境があっても、『まあどうせ、いつか配信とかしてくれるでしょ』という声もTwitterでたまに見かけます。

鑑賞者の楽しみ方に義務はありません。ただ、私たち東京文化ライオンズクラブの考え方で申し上げると、せっかくなら『生の演奏会・ライブ』に行っていただきたいところです。それは、これまでコロナで疲弊したエンタメ業界への支援にも繋がります。

もちろん、エンタメ従事者への支援という側面だけで申し上げてるのではなく、みなさまにとっても良いことはあります。何よりも生の演奏会やライブは楽しいはずです。どんなにテクノロジーが発展しても、生の空気感、演者の呼吸音、集中する聴衆の緊張感や、ライブでの演者とのコミュニケーションなど、リアルイベントに勝るものは無いだろうと思います。

一方、配信三昧だったコロナ期に、音楽に興味をもたれた方も少なくないと思います。演奏会やライブへは気軽に足を運んでいただき、ぜひそれぞれの『音楽空間』を楽しんでください。オーケストラコンサートなんかはよく、『ドレスコード厳しい?』『マナーは??』という声をよく耳にします。最近はそのようなオカタイコンサートは比較的少ないと思います。細かいことは気にせず、『行ってみたい・聞きたい』という好奇心を頼りに、2度目となりますがぜひ、リアルイベントへ足を運んでいただきたいと思います。

L浦田拳一

そば巡りブログ

東京文化LC前会長のL茅野雅弘です。今回はそば巡りの第二弾をお送りいたします。

蕎麦屋巡り、二軒目は江戸蕎麦御三家「神田 藪蕎麦」

淡路町駅からほど近くビジネス街の中にある江戸時代の蔦屋の流れをくむ老舗の蕎麦屋

屋外, 建物, 道路, ストリート が含まれている画像

自動的に生成された説明

神田オフィス街のビル囲まれながらも立派な店構え

実はこの界隈、江戸時代から賑わいのある地です。特に大正時代は中央線の始発駅「万世橋駅」があり、藪蕎麦界隈は大変な賑わいでした。私も上野の生まれ育ちですので良く都電に乗って万世橋駅跡にあった交通博物館に遊びに来ていました。この辺は改めてご紹介しましょう。

さて、現在の藪蕎麦の建物は平成25年に焼失した後再建された建物です。

私は焼失前の店にも行きましたが、引き戸を開けて店内に入るとお帳場の女将が「いらっしゃい~」の掛け声がかかる情緒ある店でした。

板塀のある以前の店舗

この情緒は今も健在で新しい店に至るアプローチも落ち着いた雰囲気、蕎麦屋としては高級感が出ています。脇には創業者堀田七兵衛の胸像、老舗感は強めですね。

女将の声掛けこそないものの、店員さんの「いらしゃい~」は健在で落ち着いています。

台の上にある岩

低い精度で自動的に生成された説明

以前より広い店内 雪見障子からは庭が見える

早速、蕎麦すしと熱燗で一杯。皆さんあまり聞きなれない「そば寿司」写真のとおりシャリの代わりに茹でたそばを海苔で巻いた太巻寿司です。

太巻寿司よりは味は淡白ですがその分つゆや醤油に合います。

老舗でありビジネス街の中にあっても昼からお酒たしなむ方も多く、カップル客も。

大人のデートコースに最適です。

私はカキの南蛮漬と鴨も頼んで蕎麦屋飲みです。

蕎麦すし・カキ南蛮漬け・鴨で一杯 日本人で良かった!

仕上げは鴨南蛮せいろ。

蕎麦は蕎麦の実の緑色皮ごと挽いた藪蕎麦、せいろの色が薄っすらと緑色になっています。

香りと味が強くザ・ソバという食感です。一方つけ汁は蕎麦に合わせた鴨汁が誠にgood。

鴨せいろは銀座の長寿庵が元祖と言われておりますが(おいおいこちらも紹介しますね)、老舗らしく鴨と蕎麦の相性が良く伝統の一品でした

全国に藪蕎麦は広がっておりますが、基本は蕎麦の実を甘皮ごと挽いて打った藪蕎麦を使うのが原則で、蕎麦の色が甘皮の緑が混ざり緑色ぽっくなります。

殻を取った蕎麦の実を丸ごと挽くのが藪蕎麦 蕎麦が緑色かかっています

東京の蕎麦屋御三家 趣と歴史を感じながら 楽しくそばを堪能できたひと時でした。

次回は御三家「永坂更科」に伺います。

かんだやぶそば

〒101-0063 東京都千代田区神田淡路町2-10

営業時間: 11:30~21:00 定休日:水曜日

電話: 03-3251-0287