『どうした家康・なにした家康』人生最大の危機!「焼きみそ・食い逃げ・しかみ像」

皆さんこんにちは!


東京文化ライオンズクラブと歴史探求団体「ヒストリンク」のコラボレーション企画
ヒストリーライオン『どうした家康・なにした家康』の第五号を配信いたします:)

前回のメルマガでは
金平糖の逸話や今川氏真のその後などをテーマにしました。
今号では徳川家康人生最大の危機である「三方ヶ原の戦い」の背景説明と、
あの有名な「焼きみそ・食い逃げ・しかみ像」周辺のエピソードについての解説をします!
また、時期は前後しますが大河では尺の関係ですっ飛ばされてしまった「姉川の戦い」についても補足を。
信長の義兄弟であった浅井長政はなぜ突如裏切ったのか?その解説を致します。
というわけで今号の内容は

【今回のコンテンツ】
①ややこしくて分かりにくい…!?大河ですっ飛ばされた姉川の戦いについて!
②家康がボロ負けした三方ヶ原の戦いについて
最後の部分で
③ライオンズ×歴史団体ヒストリンクのコラボレーション企画の進捗共有
を致します!よろしくお願いします♪


【①ややこしくて分かりにくい…!?大河ですっ飛ばされた姉川の戦いについて!】

姉川の戦いは1570年(元亀元年)6月に起こった戦いで
織田信長、徳川家康の同盟軍が
浅井長政、朝倉義景の両軍と戦った戦です。
大河ドラマ劇中では松潤家康が信長か長政かどちらにつくかで「どうする!?」状態になっていましたが、
(※関ヶ原の伏線になる・・・!?”問い鉄砲”もされていましたね!)
実はこの戦は信長にとっても、また敵方である長政にとっても悩ましいものでありました。

○信長と長政は義兄弟。兄と弟の関係でした
そもそも信長と浅井長政は義兄弟の関係にありました。
信長が美濃の斉藤氏を攻略をする際に近隣の有力者である浅井氏と同盟を組み、
挟撃して斉藤氏を倒そうという魂胆のもとの政略結婚を画策。
そのときにお市の方(信長の妹)が長政のもとに嫁いでいたのでした。
ですから長政は信長にとっての義弟でありますし、信長にとっては彼を絶対に裏切ることのない存在だと考えていました。

しかしながらそうはなりませんでした。
実は、浅井家と朝倉家は信長よりもずっと以前からの同盟関係。
信長と長政が同盟を組む際の条件に
「朝倉家との不戦の誓い」を盛り込んでいたくらいでした。
しかしどういうわけか信長は、この条件を反故にして朝倉氏を攻めてしまったのです。
この時期の信長は足利将軍家の威光を背景に天下に対して号令をかけ始めていましたが、
朝倉義景がこれに呼応せず上洛しなかったのを口実として朝倉の本拠である越前へ侵攻したのでした。

義兄への忠義か、先祖代々の同盟関係への義を立てるか。
長政は二つのジレンマの間で悩みに悩み抜きました。
そして…

元亀元年四月。
信長が朝倉義景の金ケ崎城を攻めている最中に
浅井長政、覚悟の裏切り。

これが全くの想定外であった信長は仰天し、
退路を断たれた絶体絶命の中で、
秀吉と明智光秀に殿(しんがり)をまかせ
命からがらの退却を行ったのでした。

(これが世にいう”金ケ崎の退き口”であり、大河ドラマでは第14話にあたります)
(※家康がこのときにドラマのように殿を勤めたかどうかは記録がなく不明。大河の創作と言えましょう)

本拠に帰り体制を整えた信長は家康と共に浅井・朝倉軍を攻め、
元亀元年六月、これが姉川の戦いになります。
浅井・朝倉方が2万1000に織田・徳川方が3万4000とも呼ばれる大激戦で
今でも現地には「血原」や「血川橋」といった地名が残るそうです。

徳川四天王である榊原康政による側面攻撃などで
この戦いに快勝した信長・家康連合軍は
じわじわ浅井・朝倉の勢力を切り取り、
数年の後にこれを滅ぼすことになるのでした。天正元年、三方ヶ原の戦いの翌年のことであります。
浅井・朝倉の滅亡により、信長の畿内における一強体制が揺るぎないものとなります。
後世の創作ではありますが、『浅井三代記』には義景・長政・長政の父の三名の頭蓋骨で
信長が正月の祝いを行ったとすら書かれていますから、信長にとってその喜びはひとしおだったのでしょう。

一方で浅井長政の、天下を取らんとする義理の兄を裏切ってまで殉じた朝倉氏への恩義の深さにも
どこか感じ入ってしまうものがあります。
天下の情勢に流されるか、義を果たすべきか。
大きな葛藤の中に果てた長政の思いもまた顧みられるべきといえます。

(大河の中でも松潤家康が最後の最後までどちらにつこうか悩むくらいの好男子として描かれていましたね)
長政役の大貫勇輔さんの好演、見事でした!


【②家康がボロ負けした三方ヶ原の戦いについて解説!】

姉川の戦いについて長く書きすぎてしまいました汗
こちら、三方ヶ原の戦いもとても有名な戦いで、「しかみ像」や「馬上の味噌」の逸話などがありますね。
戯画的に面白いエピソードもある中で、しかし戦いの背景や結果など細かな観点から見てみるのも
中々味わい深い戦いと言えます。ここからは大河での描写も眺めつつ、史実に基づいて戦いを概観してみましょう!

三方ヶ原の戦いは
1573年(元亀三年)甲斐国守護武田信玄と三河守(みかわのかみ)徳川家康との間で起こった戦いです。

この戦いの原因は、当時滅亡寸前にあった今川家の所領をどのように扱うかの認識の齟齬にあります。
家康は西から遠江を、信玄は北から駿河を攻める形で今川領土を侵略していったのですが、
その際の境界線を「互いに切り取り次第」として曖昧にしか決めていなかったことから問題が生じてしまったのです。

一般にこの戦いは家康が武田軍の奇策、浜松城の素通りに引っかかり
多くの戦死者を出して潰走した…とされています。
現に大河で描かれたように夏目吉信や本多忠真を筆頭に数多くの味方を戦死させてしまいましたが、
しかし、家康も単純に罠に引っかかったのではなく、
その裏には事情もあったようです。
たとえば本郷和人『徳川家康という人』(河出新書)には、
「家康は信長から佐久間信盛・水野信元など複数の援軍を預かっていたため、場内に籠城を続けることはメンツ的に許されなかった」
という趣旨の記述があります。

氏によれば、城門を開け打ってでて、少しの間打ち合って退却する手筈が、
血気盛んな三河武士があまりに前に出て結果としてそのような罠に引っかかる構図になってしまったということです。
罠であるかもしれないと思いつつも政治事情で踏み込まなくてはいけなかった立場を想像すると、
なんだか複雑な心境になってしまいます。
結果として人生最大の敗戦となりましたから家康は内心忸怩たるものだったでしょう。

大河の中では本多忠真(本田忠勝の叔父)や夏目吉信
の壮絶な最後が描かれ多くの人の涙を誘いました。

夏目吉信といえば、松潤家康がいつまでも本名を覚えられず間違い続けたコメディタッチな演出がありますが、
こちら史実とは言わないまでも元となったネタがあります。
というのも、夏目吉信という名前は歴史の資料には確認されず、
一次資料に出てくるのはいつも「夏目広次」の名前なのです。
これはあたかも徳川家武将の真田信繁が真田幸村の通名で有名であるかのような不思議で、
この実名と通名の違いを巧みに活かしたのが今回の大河のエピソードだったわけです。

【参考①】
「どうする家康」ネット号泣 だから夏目広次の名前を間違えた…初回からの伏線に甲本雅裕も衝撃「マジか」
https://news.yahoo.co.jp/articles/067db12fd0ff2519b42d2694ed713ef9ebd21a90

そのほか、三方ヶ原の戦いには数多くのエピソードがありますが、
書ききれませんのでダイジェスト的にいくつか挙げます。

・酒井忠次の「酒井の太鼓」は愛知県岡崎公園にも石像があるくらいに有名な話だが、
こちらは三国志の諸葛孔明のエピソードから借りた創作である。

・家康の自画像で有名なものに「しかみ像」と呼ばれるものがあり、三方ヶ原の敗戦を痛恨に思い部下に描かせたとされていたが、
この説は誤りで、これは昭和11年に徳川美術館初代館長の徳川義親氏が話したリップサービスが由来。

【参考②】
徳川家康「しかみ像」は慢心の戒めに描かせたのではなかった? 三方ケ原の負け戦(いくさ)とは無関係とする新説
https://www.tokyo-np.co.jp/article/152335

などなど。
さらに挙げるなら、
「勇猛な三河武士は斃れるときも後ろを向かず敵を正面から見据える形で倒れていた」
「家康はあまりの恐怖に馬上で粗相をし、部下にそれを指摘されると”これは味噌じゃ”と返答した」
なども有名ですね!

”馬上の粗相”の話は三方ヶ原を語る上で絶対に外せないエピソードですが、
松潤家康とのイメージのギャップがありましたから、こちらどのように作劇するのかな?と思っていましたが、
なるほど大河19話「お手付きしてどうする」にて上手に処理されていましたね。
つまりはこれを「心無い市井の噂話の一つ」として表現したのです。
しかもそれを吹聴している中に「茶屋の老婆」の姿もあり、
こちらも有名な「食い逃げした家康を追いかけて代金を払わせた」という「小豆餅の銭取婆」の逸話を
上手に取り込んでいます。

大河ドラマには進行上の尺の関係や役者イメージなど様々な制約があるといわれていますが、
そのような条件の中でも既存の説と新説をうまく融合させて表現していく。
「ALWAYS三丁目の夕日」でも有名な古沢良太氏が今回の大河の脚本ですが、
その腕前には毎度唸らされてしまいます。

六月に入ると大河も折り返し地点となりますが、
後半戦もますます大河からは目が離せません!今後もヒストリーライオン「どうした家康、なにした家康」をよろしくお願いします♪

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【③ライオンズ×歴史団体ヒストリンクのコラボレーション企画の進捗共有】

ヒストリンクでは、岡崎市などが行なっている歴史ファンコミュニティ「どうする岡崎家臣団」の企画協力、岡崎大河ドラマ館応援隊の隊員候補の紹介などを行なっております。

直近では、歴史カードゲーム・ハイストリーと岡崎市をマッチングさせたり、地元の食品メーカー(カクキュー)とコンタクトを取ったりと「歴史で地域を活性化」に関わっております。
秋には岡崎市のみなさんの後援を受けつつ、ドイツへの遠征も検討しております!

大河ドラマ「どうする家康」の波に合わせて、岡崎市で行われる各種歴史講演会やツアー企画への講師紹介・派遣も予定しており、河合敦氏(歴史作家、NHK「歴史探偵」など出演)、大石泰史氏(歴史研究者、「どうする家康」古文書考証)などヒストリンクに協力している方々を繋いでおります。

昨年末に歴史イベントで岡崎市とのつながりができてから、続々と企画が立ち上がりました。
今後は岡崎市をヒストリンクの活動・事業のモデルケースとし、ライオンズクラブはじめ各団体や企業、自治体との連携による歴史まちおこしを加速させて参ります!
岡崎にとどまらず、名古屋市の若者グループや大須商店街の方との交流も始まりつつあり、ますますネットワークが広がっていく予感です。
関東と愛知。二つの土地から歴史コンテンツを盛り上げ、日本の教育全体も明るくしていきますのでどうぞよろしくお願いします♪


【ご参考】
☆どうする家康HP
https://nhk.or.jp/ieyasu/
☆ヒストリンク
https://historyenjoy.com

歴史人 約束違反に激怒したのは家康の方だった 史記から読む徳川家康⑫
https://www.rekishijin.com/26706/2
柴田理恵、『どうする家康』団子屋の老婆を演じて 「今の世の中も変わらない」
https://realsound.jp/movie/2023/05/post-1330808.html
「どうする家康」三方ヶ原逸話“回収”団子売りの老婆 番組CPも唸る作劇 柴田理恵の起用「愛らしさ」も
https://news.yahoo.co.jp/articles/c3f4ab89cefa391c91c590312c9b3d82f4e42af1

【文責】
東京文化ライオンズYCE委員会・地理歴史研究班所属、鈴木慎平
協力:徳川家を楽しむ会(歴史研究者とのマッチングサービス)
連絡先:yanaka.labo@gmail.com
歴史団体ヒストリンク・歴史を楽しむ会 代表 斎藤太一
連絡先:http://histlink.pro.fan@gmail.com

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