皆さんこんにちは
東京文化ライオンズクラブと歴史探求団体「ヒストリンク」のコラボレーション企画
ヒストリーライオン『どうした家康・なにした家康』の1月号を配信いたします:)
いよいよ最終回を迎えた「どうする家康」
関ケ原から大坂の陣(冬・夏)にかけての動きを解説致します!
【今号のコンテンツ】
①徳川VS豊臣までの経緯(方広寺鐘銘事件含む)
②夏の陣、堀の埋め立て、冬の陣
【徳川VS豊臣までの経緯(方広寺鐘銘事件含む)】
家康の寿命VS豊臣家の命運
みなさんは「大坂冬の陣・夏の陣」ときいてどのようなことを思い浮かべるでしょうか?
大坂の陣の一般的な印象としては
「関ケ原に勝利した家康が豊臣にイチャモンをつけて潰した、堀の埋め立てでズルをするなど狡猾な手段を用いた」といったイメージを持っているかもしれません。
しかし実はこのような説は近年否定されつつあります。
家康は豊臣とは開戦したくなく、戦いの最中も講和を探り、最後まで秀頼が生きる道を残そうとしていたようです。このあたりについて詳しく解説していきます。
【15年という時間感覚】
まず関ケ原(1600年)と大坂の陣(1615年)に関して、この二つの戦いの戦間期は15年あります。現代の我々はこれらをワンセットで記憶していますが、当時を生きる人からすれば15年もの歳月には生まれたての赤ん坊が元服・成人してしまう長さがあることに目を向けなければなりません。
実際関ケ原の戦い後に
・井伊直政 ~1602年
・本多忠勝 ~1610年
・榊原康政 ~1606年
・平岩親吉 ~1611年
など大河ドラマの面々は軒並みこの世を去っております。
(※本多正信と渡辺守綱を除く大河の初期メンバー)
しかし豊臣側の陣営も
加藤清正(~1611年)や池田輝政(~1613年)浅野幸長(~1613年)など有力な家臣を次々となくしており、慶長18年(1613年)にはもはや家康にとって軍事的な障害がない状態になっていきます。このように「たったの15年」の間で情勢は恐ろしい速さで進んでいきました。
当初の家康は実に義理堅く、太閤秀吉の遺言(秀頼と千姫の婚姻)をきちんと成立させ、
また京都から西の領地には徳川譜代の家臣を敢えて配置しないなど、「西は豊臣、東は徳川」という領域分けで豊臣への忠節を示そうとしていた節があります。
この当時、世間では「家康が将軍(武家)、秀頼が関白(公家)」として二つの権力が併存する状態(二重公儀体制)になるのではないかと思われていました。歴史学者の笠谷和比古氏はこの体制を家康自身が設計したものとして(:『歴史街道一月号』参照)
先ほど上げた、
・関ケ原後の領地配分で京都から西に徳川大名を一人も配置していない
↑この事実を
”情報の収集や反乱への備えを考えれば徳川譜代も置くべきなのに全部調べてもゼロ
これは「京都から東は徳川、西は豊臣というメッセージ」である”と述べています。
思えば長い日本列島を一元的に支配するのは当時の統治技術としては無理で、鎌倉時代や室町時代もそうであったように、関東・関西が二元的に国を統治するのが自然だったのかもしれません。秀吉の命により本拠地を関東へ移封させられた家康にはこのことも強く認識させられていたのでしょう。
しかしどこかのタイミングからか(一説には1608年)、家康は豊臣家に対して敵対モードへと入ります。京都より西の豊臣系大名を改易し、そこに徳川譜代を入封させたり、「親徳川」の藤堂高虎を伊勢の津に移封、九男の徳川義直に名古屋城を築く(1610年)など、豊臣に対する包囲網の構築を開始し始めました。
家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられた二年後、早くも息子秀忠に将軍職を譲っており、これは豊臣に政権を戻さず徳川が世襲するという意思表示ともいえる行為でありました。慶長16年(1611年)に行われた二条城での豊臣-徳川での会見では豊臣が上座に座りましたが、ここで改めて家康は秀頼の存在感・自分が亡き後の徳川の危機について痛感させられたのだと思われます。
世間の風潮としてもやはり太閤秀吉の威光は未だに健在であり、家康が世を去った後には再び豊臣の天下が来るのだと信じている人も数多くいたようです。大河ドラマ45章「二人のプリンス」でも秀忠みずから情けなく心情を吐露していたように
落首:「御所柿は ひとり熟して落ちにけり 木の下に居て 拾う秀頼」(家康は老齢のためそのうち自然とこの世を去り、何もしないまま秀頼が得をする、の意)といった気分が世間では一般的だったのでしょう。
「今のままでは力関係がはっきりしない。明確に豊臣を徳川の下と序列化しなくてはいけない」
このように危機感を抱いたと思われる家康にとって
慶長19年(1614年)の「方広寺鐘銘事件」は降って沸いた幸運のようなものだったのかもしれません。「名前を分割し呪いを込めた」とされる有名な本件ですが、これに関しては当時の有識者の見解でも、「名前を分割することは失礼にあたるが、これを呪詛とまではいえない」という見方らしいのですが、この事件を巧みに使い、家康は豊臣に対して
・淀殿が江戸に人質にくる
・秀頼の大阪城の退去
・秀頼が一大名として江戸に参勤する
以上三条件のどれか一つを受諾せよと明確に服従を突き付けました。
これに従えないと徳川-豊臣の取次役立った片桐且元を追放し、
そこから始まったのが「大坂冬の陣」でありました。
【大坂冬の陣】
SNSで大河ドラマの解説を行っている歴史家の平山優氏によると
徳川方の軍勢は世代が変わって実戦経験者が少ないものが多かったそうです。
大名や指揮官クラスはほとんど初陣で徳川家臣団でいうと
徳川四天王の跡継ぎ
・井伊直孝
・酒井家次
・榊原康勝
・本多忠朝
後の徳川御三家
・徳川義直
・徳川頼宣
らが参陣していました。
一方の豊臣方は関ケ原の戦いで西軍につき家を取り潰された牢人(浪人)たちが軍勢の中心で、
長宗我部盛親
真田信繁(幸村)
後藤基次
毛利勝永
明石全登
などが「五人衆」として参加していました。
「真田幸村」として知られる信繁は大阪城の弱点である南方面に出城(真田丸)を構築し、
戦いに不慣れな徳川軍団を手玉に取る活躍を見せました。
これに対する徳川は、イギリスやオランダから輸入したカルバリン砲やセーカー砲、堺で製作された芝辻砲などを使い大阪城を囲う堀の外から一斉に砲撃したといいます。
狙いを定められる距離にはなかったといわれますが日夜ひっきりなしに撃ち込むことで轟音を響かせ威嚇。さらに弾丸の一つが淀殿の侍女8人に直撃し即死。この出来事から豊臣方は家康との和議へ向かうことになります。
講和条件として堀の埋め立てや総構えの破壊などが重要でしたが、
これに関しては「徳川がだまし討ちして内堀まで埋めさせた」という事実はなく、
あくまで豊臣がグズグズと埋め立て工事を行っていたところを徳川がせかしたというのが
実情だそうです。
豊臣方は一枚岩で戦えてはおらず、講和を結びたがる者と徹底抗戦を唱えるものが入り乱れ、冬の陣の終戦後は講和派である織田有楽斎などが調整に疲れ果て退去するなどして、残された浪人達の勢いもあり、最後の戦いである「大坂夏の陣」が始まりました。
【大坂夏の陣】
冬の陣との最大の違いは「夏の陣は野戦である」ということです。これは大阪城に堀がなくなったため籠城で戦うことができなくなったという事情によります。
この戦いでは豊臣側に勝ち筋はなく、道明寺の戦いでの後藤基次の奮戦や天王寺の戦いにおける毛利勝永と真田信繁の突撃が有名ですが、それらは最早大勢を覆すものではありませんでした。
信繁の本陣突撃では家康の馬印が倒される大混乱を巻き起こしこれは家康の人生最大のピンチ「三方ヶ原の戦い」以来のことだったといわれます。そのことは後々の世まで真田家の武勇を褒め称える結果となりますが、最終的に大阪城に内部から火が放たれ、淀殿、秀頼たちは大阪城中で自害。こうして豊臣家は滅亡することになったのでした。
このようにして家康はのちの世まで続く元和偃武(げんなえんぶ)を果たしました。
この後はご存知のように、「島原の乱(1637年)」を最後に、徳川家が260年もの天下泰平の世を治めていくことになります。
家康の死後の話やこれまでの事績、そして最終回の「えびすくい」のエピソードについては
次回2月号にて解説させてください!
お読みいただきありがとうございます:D
次回もお楽しみください♪
【ご参考】
☆どうする家康HP
https://nhk.or.jp/ieyasu/
☆ヒストリンク
https://historyenjoy.com
刀剣ワールド 城大坂の陣とは
https://www.homemate-research-castle.com/useful/16981_tour_062/
華々しい実績はなかったが、最後の奮戦ぶりで名を残した真田信繁
https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/00161/062700002/
3分で簡単「大坂城五人衆」大坂の陣で戦った名将たちをわかりやすく歴女が解説
https://study-z.net/100084239
【文責】
東京文化ライオンズYCE委員会・地理歴史研究班所属 L鈴木慎平
協力:徳川家を楽しむ会(歴史研究者とのマッチングサービス)
連絡先:yanaka.labo@gmail.com
歴史団体ヒストリンク・歴史を楽しむ会 代表 斎藤太一
連絡先:http://histlink.pro.fan@gmail.com