歴史の織機に挟まれて叩き込まれたトヨタイズム

こんにちは!東京文化の一ノ瀬です。

先日、名古屋駅近くのトヨタ産業技術記念館を見学してまいりました。織機や自動車もミュージアムという歴史化された舞台で鑑賞すると美術品のように感じられます。今、私たちが普段使っている当たり前のものも時代が変われば歴史的な遺物になるのかもしれませんね。

閑話休題。

さて、トヨタといえば、日本を代表する自動車メーカーですが、そのはじまりは織機からスタートしています。記念館も前半は織機の歴史、後半は主にトヨタ自動車の歴史で構成されています。

遥か遠くまで並ぶ織機の実物に感動!!!

はじめの展示は繊維の解説、世界の綿花の分類からはじまります。織機の歴史が太太古の昔から現代まで動く実物を見ながら通史として体験できます。ものを編むという人類の文化と技術革新の歴史が一堂に並ぶ様は圧巻。まるで神の視点に立ち、人類の歴史を早回しで見るかのようでした!

世界史で丸暗記したハーグリーヴズ/ジェニー紡績機の現物もありました。入り組んだ複雑な機構に目と頭がくらくら…

職人がこのようにして作業をしていたのですね。

自動車に関する展示の前にトヨタの歴史が一望できるパネル展示がありました。多くのイノベーションの歴史がここに連なっていて、大変感銘を受けました。有名無名を問わず、ここには汗水を流しながら豊かな社会の暮らしの礎を築いてくださった先人たちの名前が連なっています。

産業技術の進歩は、今日の私たちが享受している豊かな生活の基盤となっています。産業の発展、効率的な生産手法、そして革新的なアイデアは過去の先人たちが培った知恵と努力によって支えられています。まさに、血と汗と涙の結晶なんだと痛感しました。トヨタの歴史を垣間見ながら、その積み重ねに現代の快適な暮らしがあるのだと、再認識しました。感謝の念を胸に、未来への自分の責任をも感じる瞬間でした。


改めてトヨタの偉大さについて身近に触れる素晴らしい機会を得ました。同じ展示室には関連グループの紹介もあり、金融から不動産、住宅、材料など関連会社が17社もあることも知りました。いやぁ、トヨタグループについて何も知らない自分の不勉強が恥ずかしくなりますね!

第2会場では、自動車企業としてのトヨタの歴史が展示されています。豊田佐吉の長男である豊田喜一郎がアメリカ視察の際に大量のフォード車を見て度肝を抜かれます。これからは自動車だ!その思いが仲間とともに具現化していく過程が人形やアニメ、実機を用いて解説されます。

職人の息遣いさえ聞こえてくる工場の再現展示

企業努力の末、1935年にA1型試作乗用車・G1型トラックが完成、その翌年の1936年に「トヨダAA型乗用車」が発売されました!今見ても、ものすごくおしゃれな外観ですね。

トヨタ産業技術記念館は、技術の進歩や過去の努力に敬意を表する素晴らしい場所でした。これからもこのような施設が、私たちの未来に向けてインスパイアを与え続けてくれることを期待しています!

経営者として沁みる言葉が並びます。徹底した現場主義。何事も汗水流してこそ。

大変勉強になりました。ライオンズクラブの皆様も名古屋駅に最寄りの際は是非ともお立ち寄りください。


トヨタ産業技術記念館
Web:https://www.tcmit.org/
〒451-0051 名古屋市西区則武新町4丁目1番35号
TEL:052-551-6115/FAX:052-551-6199

名古屋といえば、ひつまぶし!大須観音近くのうなぎのやっこさんでいただきました!

ごちそうさまでした。

名古屋、最高だぎゃー!また行くみゃー!

L一ノ瀬健太

Mature紀行⑤ダ・ヴィンチとフランソワ1世

フランス文化の開花はフランソワ1世がレオナルド・ダ・ヴィンチをロワール渓谷のクロリュセ城に招聘してからだとも言われています。ロワールの古城巡りでまず訪れたかったのはこのダ・ヴィンチの館、そしてロワール屈指の美しさとと言われるシャンボール城です。フランソワ1世が文化保護のみならず軍事、外交上においても世界史においておおきな存在であったことをあらためて実感させられる旅でした

🔳ダ・ヴィンチの館ことクロ・リュセ城

この地でダ・ヴィンチはモナリザには何度も手を加えており、亡くなる前に最終的な「完成がしていなかった」と言われているそうです。ダ・ヴィンチは最晩年の3年間をこの地で弟子や友人と過ごし1519年になくなりました。フランソワ1世の腕の中で息を引き取ったと語り継がれるほど王とダ・ヴィンチは親しい間柄で有ったよです。

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🔳ダビンチの寝室と臨終の瞬間

ダビンチが設計に関わったとも言われているシャンボール城を訪れました。建築上の見所の1つに、二重らせんの階段が挙げられます]。2つの階段を使えば、相手に出会うことなく3階まで昇り降りができるのです。

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🔳ダ・ヴィンチ設計の二重螺旋階段:シャンポール城

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シャンポール城を訪れその景観を楽しみながら中にはいるとまず目についたのは「金蘭の陣」の絵が飾ってあるのが目につきました。1520年、ルネサンスを代表する二人の君主、仏王フランソワ1世と英王ヘンリー8世の会見が行われました。実際会見は仏カレー近郊で行なわれたのですがここではフランソワ1の外交史を紹介するために飾られていました。レスリングをしてフランソワ1世が勝ってしまったのでヘンリー8世は怒って帰ったとも言われています。すごい話ですね。ここでは騎乗の中央がヘンリー8世(黄色衣装)、左にフランソワ1世。Netfrixオリジナルドラマ[血と愛と王位」ではそのレスリングの模様やその時英仏の通訳を務めたアンブーリンが描かれています。アンブーリンが仏宮廷で働いていたjことからロワール古城周辺でも暮らしており、その後金蘭の陣で初めてヘンリー8世に会ったそうです。英国史を大きく変えた英国国教会の確立というエポックの予兆がこの頃に見られたということでしょう。

🔳「金襴の陣」7 June 1520: 仏王と英王はなんと、レスリングを行った。

🔳1535年頃「フランソワ一世の肖像」ジャン・クルーエ:ルーブル美術館収蔵

英国王ヘンリー8世 :1547年1月没  

仏国王フランソワ1世:1547年3月没  

さらに二人の外交に関わる絵画といえば当時イギリス宮廷画家のホルバインの傑作『大使たち』。この人たちは一体誰?と思いながら鑑賞している方も多いと思います。フランソワ1世がロンドンへ派遣した大使たちであり、その目的は英国史のなかでバチカン離脱に関する重大なミッションであったといいます。下手のゆがんだ頭蓋骨で有名な作品ですがヘンリー8世とアンブーリンが再婚した1533年に描かれ、イギリス宗教改革の混乱を暗示しているようです。

🔳1533『大使たち』ハンス・ホルバイン:ロンドンナショナルギャラリー収蔵

ルーブル美術館を訪れた翌日に、ダ・ヴィンチそしてフランソワ1世の文化、外交の歴史にふれる旅でした。

上野の杜ブログ「大晦日・年越しの上野」

ゆく年くる年をぼんやり眺めながら家内に声をかけられた。もうそろそろじゃない?

紅白が終わったらすぐに出ようと思っていたのだが、気づけば朝までさだまさしがはじまっている。家内に促されるがままに、ひとり自転車に乗る。

ゴォーンと大小の鐘の音が四方八方から聞こえてくる。谷中には鐘を持つ寺社が多い。

例年、谷中界隈の瑞林寺や妙行寺で甘酒と鐘撞きで季節の風物詩を楽しむが、今年は五條天神社と不忍池辯天堂にお参りに行こうと思う。

五條天神社はお参りの行列が不忍通りにかかるくらいにできていたので、はじめは辯天堂からお参りすることにした。

多くの参拝者たちが線香を供えていたため、並ぶ間はとても煙たかったが、普段これほどご利益のある煙を浴びることもないからと目に涙を溜め咳き込みながらしばらく列に並んでいた。5分くらいだろうか、すぐに本堂にてお参りができた。合掌。

新年にしかないお守りなどもあり、簡易的にできた授与所も大賑わいであった。大黒天様にもお参りさせていただいた。

続いて五條天神社へ。

参拝者の行列も徐々に落ち着き、境内にはお焚き上げの様子が見える。

鯔背な纏のお兄さんが、満遍なく火が行き届くよう大きな木の位置を整えていた。その木を整えるたびに大きな火の粉が舞う。

大変、美しく、この瞬間だけは、この世のありとあらゆるものが清められる気がした。

季節の風物詩とは、生き甲斐だ。除夜の鐘もいい。寒風の中で飲む甘酒も、お汁粉も、、熱燗もいい。

近年、除夜の鐘がうるさいとクレームが入り、鐘撞きを断念するお寺もあるという。季節の四季折々の風景に生きがいを見出すわ私からすれば残念なことではある。だが、伝統だからしかたない、文化だから従えではなく、小さな声をしっかり受け止めるお寺の他者への意見への敬意はさすがだ。お寺からの敬意を示されたのなら鐘撞きの騒音を指摘したものも敬意で応えrば、きっと世知辛い世の中も少しはよくなるのかなぁ、と炎上する木々から空に舞う火の粉に、少し先のいい未来を想像した。

お参りの後は、御神酒を頂戴し、おみくじを引く。お汁粉のチケットもいただき、新年早々、温かいスタートとなった。

今の号はコラムのようにしてみました。拙文、ご笑覧いただきありがとうございました。

皆様、本年もよろしくお願い申し上げます!龍が如くエネルギーに満ちた1年にしましょう!🎍🌅🎍

東京文化ライオンズクラブ
L一ノ瀬健太

ヒストリーライオン 最終回を迎えた「どうする家康」 関ケ原から大坂の陣(冬・夏)を徹底解剖!

皆さんこんにちは


東京文化ライオンズクラブと歴史探求団体「ヒストリンク」のコラボレーション企画
ヒストリーライオン『どうした家康・なにした家康』の1月号を配信いたします:)

いよいよ最終回を迎えた「どうする家康」
関ケ原から大坂の陣(冬・夏)にかけての動きを解説致します!

【今号のコンテンツ】
①徳川VS豊臣までの経緯(方広寺鐘銘事件含む)
②夏の陣、堀の埋め立て、冬の陣

【徳川VS豊臣までの経緯(方広寺鐘銘事件含む)】
家康の寿命VS豊臣家の命運

みなさんは「大坂冬の陣・夏の陣」ときいてどのようなことを思い浮かべるでしょうか?
大坂の陣の一般的な印象としては

「関ケ原に勝利した家康が豊臣にイチャモンをつけて潰した、堀の埋め立てでズルをするなど狡猾な手段を用いた」といったイメージを持っているかもしれません。


しかし実はこのような説は近年否定されつつあります。

家康は豊臣とは開戦したくなく、戦いの最中も講和を探り、最後まで秀頼が生きる道を残そうとしていたようです。このあたりについて詳しく解説していきます。

【15年という時間感覚】
まず関ケ原(1600年)と大坂の陣(1615年)に関して、この二つの戦いの戦間期は15年あります。現代の我々はこれらをワンセットで記憶していますが、当時を生きる人からすれば15年もの歳月には生まれたての赤ん坊が元服・成人してしまう長さがあることに目を向けなければなりません。


実際関ケ原の戦い後に
・井伊直政 ~1602年
・本多忠勝 ~1610年
・榊原康政  ~1606年
・平岩親吉  ~1611年
など大河ドラマの面々は軒並みこの世を去っております。
(※本多正信と渡辺守綱を除く大河の初期メンバー)

しかし豊臣側の陣営も
加藤清正(~1611年)や池田輝政(~1613年)浅野幸長(~1613年)など有力な家臣を次々となくしており、慶長18年(1613年)にはもはや家康にとって軍事的な障害がない状態になっていきます。このように「たったの15年」の間で情勢は恐ろしい速さで進んでいきました。

当初の家康は実に義理堅く、太閤秀吉の遺言(秀頼と千姫の婚姻)をきちんと成立させ、
また京都から西の領地には徳川譜代の家臣を敢えて配置しないなど、「西は豊臣、東は徳川」という領域分けで豊臣への忠節を示そうとしていた節があります。


この当時、世間では「家康が将軍(武家)、秀頼が関白(公家)」として二つの権力が併存する状態(二重公儀体制)になるのではないかと思われていました。歴史学者の笠谷和比古氏はこの体制を家康自身が設計したものとして(:『歴史街道一月号』参照)

先ほど上げた、
・関ケ原後の領地配分で京都から西に徳川大名を一人も配置していない

↑この事実を

”情報の収集や反乱への備えを考えれば徳川譜代も置くべきなのに全部調べてもゼロ
これは「京都から東は徳川、西は豊臣というメッセージ」である”と述べています。

思えば長い日本列島を一元的に支配するのは当時の統治技術としては無理で、鎌倉時代や室町時代もそうであったように、関東・関西が二元的に国を統治するのが自然だったのかもしれません。秀吉の命により本拠地を関東へ移封させられた家康にはこのことも強く認識させられていたのでしょう。

しかしどこかのタイミングからか(一説には1608年)、家康は豊臣家に対して敵対モードへと入ります。京都より西の豊臣系大名を改易し、そこに徳川譜代を入封させたり、「親徳川」の藤堂高虎を伊勢の津に移封、九男の徳川義直に名古屋城を築く(1610年)など、豊臣に対する包囲網の構築を開始し始めました。


家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられた二年後、早くも息子秀忠に将軍職を譲っており、これは豊臣に政権を戻さず徳川が世襲するという意思表示ともいえる行為でありました。慶長16年(1611年)に行われた二条城での豊臣-徳川での会見では豊臣が上座に座りましたが、ここで改めて家康は秀頼の存在感・自分が亡き後の徳川の危機について痛感させられたのだと思われます。

世間の風潮としてもやはり太閤秀吉の威光は未だに健在であり、家康が世を去った後には再び豊臣の天下が来るのだと信じている人も数多くいたようです。大河ドラマ45章「二人のプリンス」でも秀忠みずから情けなく心情を吐露していたように

落首:「御所柿は ひとり熟して落ちにけり 木の下に居て 拾う秀頼」(家康は老齢のためそのうち自然とこの世を去り、何もしないまま秀頼が得をする、の意)といった気分が世間では一般的だったのでしょう。


「今のままでは力関係がはっきりしない。明確に豊臣を徳川の下と序列化しなくてはいけない」

このように危機感を抱いたと思われる家康にとって
慶長19年(1614年)の「方広寺鐘銘事件」は降って沸いた幸運のようなものだったのかもしれません。「名前を分割し呪いを込めた」とされる有名な本件ですが、これに関しては当時の有識者の見解でも、「名前を分割することは失礼にあたるが、これを呪詛とまではいえない」という見方らしいのですが、この事件を巧みに使い、家康は豊臣に対して


・淀殿が江戸に人質にくる
・秀頼の大阪城の退去
・秀頼が一大名として江戸に参勤する

以上三条件のどれか一つを受諾せよと明確に服従を突き付けました。

これに従えないと徳川-豊臣の取次役立った片桐且元を追放し、
そこから始まったのが「大坂冬の陣」でありました。

【大坂冬の陣】
SNSで大河ドラマの解説を行っている歴史家の平山優氏によると
徳川方の軍勢は世代が変わって実戦経験者が少ないものが多かったそうです。
大名や指揮官クラスはほとんど初陣で徳川家臣団でいうと

徳川四天王の跡継ぎ
・井伊直孝
・酒井家次
・榊原康勝
・本多忠朝


後の徳川御三家
・徳川義直
・徳川頼宣

らが参陣していました。

一方の豊臣方は関ケ原の戦いで西軍につき家を取り潰された牢人(浪人)たちが軍勢の中心で、


長宗我部盛親
真田信繁(幸村)
後藤基次
毛利勝永
明石全登
などが「五人衆」として参加していました。

「真田幸村」として知られる信繁は大阪城の弱点である南方面に出城(真田丸)を構築し、
戦いに不慣れな徳川軍団を手玉に取る活躍を見せました。

これに対する徳川は、イギリスやオランダから輸入したカルバリン砲やセーカー砲、堺で製作された芝辻砲などを使い大阪城を囲う堀の外から一斉に砲撃したといいます。

狙いを定められる距離にはなかったといわれますが日夜ひっきりなしに撃ち込むことで轟音を響かせ威嚇。さらに弾丸の一つが淀殿の侍女8人に直撃し即死。この出来事から豊臣方は家康との和議へ向かうことになります。

講和条件として堀の埋め立てや総構えの破壊などが重要でしたが、
これに関しては「徳川がだまし討ちして内堀まで埋めさせた」という事実はなく、
あくまで豊臣がグズグズと埋め立て工事を行っていたところを徳川がせかしたというのが
実情だそうです。

豊臣方は一枚岩で戦えてはおらず、講和を結びたがる者と徹底抗戦を唱えるものが入り乱れ、冬の陣の終戦後は講和派である織田有楽斎などが調整に疲れ果て退去するなどして、残された浪人達の勢いもあり、最後の戦いである「大坂夏の陣」が始まりました。

【大坂夏の陣】
冬の陣との最大の違いは「夏の陣は野戦である」ということです。これは大阪城に堀がなくなったため籠城で戦うことができなくなったという事情によります。

この戦いでは豊臣側に勝ち筋はなく、道明寺の戦いでの後藤基次の奮戦や天王寺の戦いにおける毛利勝永と真田信繁の突撃が有名ですが、それらは最早大勢を覆すものではありませんでした。

信繁の本陣突撃では家康の馬印が倒される大混乱を巻き起こしこれは家康の人生最大のピンチ「三方ヶ原の戦い」以来のことだったといわれます。そのことは後々の世まで真田家の武勇を褒め称える結果となりますが、最終的に大阪城に内部から火が放たれ、淀殿、秀頼たちは大阪城中で自害。こうして豊臣家は滅亡することになったのでした。

このようにして家康はのちの世まで続く元和偃武(げんなえんぶ)を果たしました。

この後はご存知のように、「島原の乱(1637年)」を最後に、徳川家が260年もの天下泰平の世を治めていくことになります。

家康の死後の話やこれまでの事績、そして最終回の「えびすくい」のエピソードについては
次回2月号にて解説させてください!

お読みいただきありがとうございます:D
次回もお楽しみください♪


【ご参考】
☆どうする家康HP
https://nhk.or.jp/ieyasu/
☆ヒストリンク
https://historyenjoy.com

刀剣ワールド 城大坂の陣とは
https://www.homemate-research-castle.com/useful/16981_tour_062/
華々しい実績はなかったが、最後の奮戦ぶりで名を残した真田信繁
https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/00161/062700002/
3分で簡単「大坂城五人衆」大坂の陣で戦った名将たちをわかりやすく歴女が解説
https://study-z.net/100084239

【文責】
東京文化ライオンズYCE委員会・地理歴史研究班所属 L鈴木慎平
協力:徳川家を楽しむ会(歴史研究者とのマッチングサービス)
連絡先:yanaka.labo@gmail.com
歴史団体ヒストリンク・歴史を楽しむ会 代表 斎藤太一
連絡先:http://histlink.pro.fan@gmail.com

上野の杜と街がつながった!上野広小路ヒロバ化実験」!

先日の11月26日、東京・上野で開催された「上野広小路ヒロバ化実験」が開催されました。

このイベントは、上野の「杜」と「まち」の回遊性向上を目的としたもので、中央通りの一部を歩行者専用通路として開放されましたそのイベントの一部をご紹介いたします。

後半は玄人好みのレポートにになっているかもしれません。

キッチンカーでは地元のクラフトビールとラムチョップが販売され、賑わいを見せていました

あいにくの雨模様ではありましたが、当日は中央通りの一部が歩行者専用通路として開放され、多くの人が訪れていました。道路には、キッチンカーや屋台、パフォーマンスが催され、活気にあふれていました!

大きな犬を連れてこられた方もいらっしゃいました!!!銀座の歩行者天国にも現れる有名な方とのことです!

中央通りと隣接する袴腰広場にも大きな芝生が出現していました!

上野の歴史や魅力、将来像について考えるスペースが展開されていました。

東京藝術大学の建築科の学生たちによる界隈のエリアを活用したプランの講評も会場で行われました。

アーティストによる音楽ライブも行われ、後を追う人々でミニパレードとなりました。

歩きやすくなるようになれば、多くの方が上野の文化施設と上野の商店街を行ったり来たりして、多くの感動がさらに生まれるのではないでしょうか!

夏祭りパレードが新型コロナの影響で中止になってから実に4年ぶりの大規模な車両規制でした。警察の方と警備会社の方が効率よく車線を減少させていく様は見事で、見ていてとても感動しました。

中央通りが遠くまで見えると気持ちがいいですね!およそ50年前は銀座まで続く歩行者天国でした。 

イベント広場以外にも広域に車線減少が行われていました。イベント以上にこうした目に見えないところの見どころもあるのかなとも思った次第です。

やはり見通しがいいというだけで気持ちがいい。景勝地の景色を見ている、そんな気分になってきます。

ここから遠目に見える上野公園を見ながら、地べたに座ってお弁当を食べる日が来るのでしょうか!?

最後は玄人向けのレポートになってしまったかもしれないのですが、大変貴重なイベントに参加することができました!

上野の美術館と商店街が歩きやすくなって、行ったり来たりする人が増えれば多くの感動が生まれるのではないでしょうか!美術館とせんべろが同居するまち・上野がとても魅力的なまちになっていくきっかけのイベントだったのかもしれません!

L一ノ瀬

ヒストリーライオン『どうした家康・なにした家康』【新説・関ヶ原の戦い!】

皆さんこんにちは!


東京文化ライオンズクラブと歴史探求団体「ヒストリンク」のコラボレーション企画
ヒストリーライオン『どうした家康・なにした家康』の12月号を配信いたします:)
今回も私、盆踊りDJ鈴木として盆踊り活動もしている鈴木慎平がお送りします。

大河ドラマでもいよいよ「関ケ原の戦い」について描かれました!
数々の見どころのある戦いですが
今回はポイントを絞り、いくつかの定説に対する
最近の説や戦いの前後を紹介します。

【新説のたくさん登場する関ケ原】
『NHK大河ドラマ歴史ハンドブック どうする家康』巻末の解説によれば
関ケ原の戦いは戦いの規模が全国規模であったため、
日本の各地に分析されていない文書が膨大に存在するとのことで、
資料読解や翻訳がまだまだ進んでいないそうです。
これらの活動に取り組むなら国家プロジェクト規模にしなくてはならず
依然として未解析・未決定な部分が多い。
そのため、これらの解析が進むごとに新しい解釈が現れてくるのが関ケ原だそうです。

例えば小早川秀秋の裏切りは「戦いの最中も悩みぬいて”問鉄砲”を射かけられて決断した」
という話が定番ですが、こちらもすでに学説としては否定されていて、
・小早川は開戦後すぐに西軍を裏切り東軍に味方した
・問鉄砲の逸話は一次資料には存在せず、そもそも問鉄砲の届く位置ではない
などになってきているようです。

また「明治時代の陸軍演習図を見たドイツ軍参謀少佐のメルケルが関ケ原の顛末を聞き驚いた」
という有名なエピソードも事実ではなく創作であるとのことです。

【参考】
メッケル少佐が関ヶ原合戦を「西軍の勝ち」と言ったことが嘘である3つの理由
近代戦術家は関ヶ原の西軍勝利を確信したか?(前編)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71777

このように、新しい説が日進月歩で登場して目の離せない関ケ原の戦いですが、
ここから戦いの概要についておさらいをします。

【おさらい:関ケ原の戦いとは】
関ケ原の戦いは慶長5年9月15日(1600年10月21日)
美濃の国にある関ケ原で行われた戦いです。

秀吉死後の豊臣政権内では
大大名の「五大老」と官吏「五奉行」の間で対立が発生しました。
五大老筆頭である徳川家康と五奉行の中心であった石田三成。
この二者による「豊臣政権内での争い」が関ケ原の戦いです。
(※この時の家康はまだ豊臣の臣下であり、豊臣VS徳川ではありません)

【背景】
慶長三年(1598)の秀吉の死後、豊臣政権内で五大老筆頭として政治的影響力を強めていく家康。
この動向を危惧した五大老の上杉景勝は家臣の直江兼続(愛の前立てで有名!)らとともに領国内の軍事力増強を行いました。
慶長五年三月には家康と景勝の間を取り持っていた家臣(藤田信吉)が追放され、
家康はそれらの動きに対する問罪使を配下の西笑承兌(さいしょうじょうたい)に送らせました。
「謀反の心がないならば上洛して申し開きをせよ」
このような内容の詰問に対して、
直江兼次はかの有名な「直江状」という家康を挑発する文章を送り、
家康は上杉征伐を決めたのでした(上杉征伐)
この征伐へ向かう最中の7月24日に家康は石田三成の挙兵を聞き、
「小山評定」を開いたあと軍を反転させ三成征伐へと向かうのでした。

ちなみに従来では「家康は三成の挙兵を誘うために上杉攻めを行った」という考えがありましたが、
最近の研究では
「家康にとって三成や大谷吉継だけを倒してもメリットはない」
「他の五大老・五奉行を一網打尽にできると家康は当初考えていなかった」
といった意見が登場してきており(2023水野伍貴など)
家康の上杉攻めの意味も以前とは違う形で考えられています。
こんなにまで敵対されるとは思わなかったならば
自分以外の四大老・五奉行を敵に回したと知ったときは
まさに「どうする?家康」の気持ちだったことでしょう。

江戸で準備を整え西に向かった家康ですが、
家康自身の主力部隊を預けた徳川秀忠は真田昌幸に阻まれ(第二次上田合戦)
なんと関ケ原の決戦当日には間に合いませんでした。
ドラマでも登場する榊原康政や松ケン演じる本多正信などは関ケ原を戦っていません。
(そのため出せる恩賞がなく康政は戦後家康との仲が微妙になったとも言われています)

家康次男の結城秀康、四男の松平忠吉と井伊直政、本多忠勝らは家康と行動し、
忠吉、井伊らが一番槍を勤めたことで徳川家のメンツは保たれましたが、
それでも戦いの主役は豊臣家の武将が中心であり
家康は徳川方の主たる武将には恩賞を与えることができませんでした。

研究者の本多隆成氏は著書『徳川家康の決断』の中で
恩賞の与え方について考察している箇所がありますが
豊臣系の武将に力を与えることのないよう、
大幅に加増を行いつつも遠隔地へと転封を行い、
その措置を行うことで関東や東海、畿内に近国の重要な地域を
徳川系の家門・譜代で固めたとのことです。

小田原の後北条攻め以降は家康の本拠地は関東となっており
元々の出身であった三河や遠江などは秀吉に抑えられてしまっていましたから、
それを取り戻して防備を固められたのには大きな意義があったことでしょう。

大河ドラマの中でも本多忠勝が自分の肖像画を
「西ににらみをきかせるために」と厳めしく描かせていたように、
まだ関ケ原が終わった段階では豊臣は滅んでいないのです。
戦勝報告に茶々と秀頼に挨拶にきた家康も
それ以降豊臣家とは一線を引くことになりますが、
天下の情勢はこの時点ではまだ見えていない状況。

マツジュン家康も関ケ原のことを
「あれはしょせん豊臣家中の仲違い」と表現していましたが、
それはこの事態を指してのことでしょう。
家康もすでに59歳と(当時としては)高齢であり、秀吉が死んだ年を超えていました。
家康死後に豊臣家が天下を取り返すと当時の武将も考えていた節があったのです。
そんな中最新の大河では秀吉の子秀頼の切れ者しぐさや、
家康から将軍の座を授かった秀忠の情けない発言(昔のマツジュン家康を思い出す?)
などなど、ますます目が離せなくなってきました。

そういった状況の中、大河ドラマはいよいよクライマックスを迎えます。
「大阪夏の陣・冬の陣」のフィナーレに向けて。
その時を一緒に見守りましょう!

【ヒストリンク、名古屋・岡崎でも活動しております!以下代表の斉藤太一氏のイベントレポートをどうぞ♪】

先日11月18日に、ヒストリンクが企画協力している歴史ファンコミュニティ・どうする岡崎家臣団のリアルオフ会イベントがありました!
岡崎城にある、普段はなかなか入れない清海堀を下に降りて探検し、城郭・地元の歴史に詳しい市職員のガイドで理解を深めました。

大河ドラマ・どうする家康効果で、少しずつですが、新たな歴史ファン・大河ドラマファンが生まれております。
ヒストリンクとしても、家康や徳川家をテーマにした講師派遣サービス利用などが着実に増えております。

どうする家康は12月に終わりますが、24年は映画「もしも徳川家康が総理大臣になったら」が放映予定と、家康から学ぶ機会はまだまだ続きそうです!


【ご参考】
☆どうする家康HP
https://nhk.or.jp/ieyasu/
☆ヒストリンク
https://historyenjoy.com

メッケル少佐が関ヶ原合戦を「西軍の勝ち」と言ったことが嘘である3つの理由
近代戦術家は関ヶ原の西軍勝利を確信したか?(前編)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71777

【文責】
東京文化ライオンズYCE委員会・地理歴史研究班所属、鈴木慎平
協力:徳川家を楽しむ会(歴史研究者とのマッチングサービス)
連絡先:yanaka.labo@gmail.com
歴史団体ヒストリンク・歴史を楽しむ会 代表 斎藤太一
連絡先:http://histlink.pro.fan@gmail.com

Mature紀行④Night Museum

「ルーブル美術館は混雑するので私は行きません。・・でも金曜夜ならいいかも」と、パリ在住の文化専門通訳ガイドさん。そういうものかと納得し、なんとか都合をつけて行ってまいりました。なるほど、到着するとこんなに空いているのかと嬉しくなってまいります。おちついた環境で3時間ほどじっくり見て回ると、もうくたくたです・・。今回はナイトミュージアムならではのじっくり体験の一部をご紹介します。

Louvre Museun  in summer 18時30頃(筆者撮影)

さっそく向かったのはリシュリューwing。17世紀のフランスの大政治家・大思想家でブルボン朝で絶対王政を確立した宰相の名前です。戦艦の名前になったり紙幣に肖像画が載るくらいなので日本でいえば江戸幕府初代征夷大将軍徳川家康のような存在でしょうか。私が最も行きたかったルーベンス『マリードメディシスの生涯』の絵画群とピッタリ世界が一致しました、同世代です。当代きっての芸術家ルーベンスが描いたこの大作群は、ブルボン朝の初代アンリ4世がフィレンツエの大富豪メディティ家から迎えた王妃マリーの生涯です。なかでもひときわ目を引くのが『マリーのマルセイユ上陸』。豊満な裸体をさらす肉感的なニンフ達と海神ポセイドンやトリトンに祝福されやってきたマリーは・・おや。圧倒的ヒロインであるはずの彼女はそれらしからぬ様相を呈しているようです。大金持ち娘さんは苦労をしらずのおばさん顔・・。実際には名実ともに「大きな顔」をしていたそうです。

🔳Marie de’ Medici

1625頃『マリーのマルセイユ上陸』

〜マリードメディシスの生涯より〜

ルーベンス・ルーブル美術館所蔵(筆者)

この絵をみてどうしても思い出すのがアンリ4世の公式の寵妃ガブリエル・デストレです。本来アンリ4世の王妃となるはずであったが突然死をしたという西洋史のミステリーです。彼女が妊娠し国王の庶子誕生を祝う作品があります。右がガブリエルで左手に指輪をもちとても幸せそうな様子です。妹が乳首を掴んでおり妊娠を連想させているそうです。よくみると背後では女性が股を開いている絵が飾ってあり何かを暗示しています。やはり幸せはそう簡単なものではありませんね。ガブリエルはアンリ4世にとって有能な外交官であり、事実上の妻であったと言われています。アンリはとてもガブリエルを愛していた、そして突然死に深く絶望したそうです。その後やってきたメディチの娘マリーは自分より大柄で凡庸でした。ガブリエルがより不憫にもおもえます。しかしながら多産系のマリーはしっかり後継をのこしブルボン家の安泰に寄与します。ところがその後アンリ4世は何者かに暗殺されました。ヨーロッパの歴史は恐ろしい。

🔳 Gabrielle d’Estrées

1594頃『ガブリエル・デストレとその妹』逸名の画家・ルーブル美術館所蔵

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マリーの長男がルイ13世、アンリの死後わずか8歳で新王となりマリーが実権をにぎりました。しかしその後は母子関係も拗れてルイ13世が成人すると母と子の戦争となりました。フランス文化を世界が崇める存在まで築きあげたブルボン王朝の初代国王アンリ4世、王妃、そしてルイ13世の幸せそうな作品がありましたので1枚紹介します。アンリ4世が暗殺される直前の情景だそうです。なんども思惑により描き直されたそうですが、こんな作品が一番が見ていてほっとしますね。

🔳Henry 4th 1625頃『摂政移譲』

〜マリードメディシスの生涯より〜

ルーベンス・ルーブル美術館所蔵

▪️アンリ4世、マリー、ルイ13世が仲良く描かれています〜

ルイ13世にとってリシュリューは枢機卿であり宰相。フランスの国威発揚には欠かせない存在であり二人三脚で王権強化につとめました。というより政務はリュシュリューにまかせ自分はヴェルサイユの小村に入り浸って狩猟を楽しんでいたようです。そして太陽王ルイ14世の出生の秘密も乗り切りフランスは絶頂期を迎えることになります。

🔳Louis 13th:1635 年『ルイ13世』1639年『リシュリュー』

フィリップ・ド・シャンパーニュ画:ルーブル美術館所蔵

政治と文化は密接な繋がりをもっています。この17世紀前半に活躍したルーベンスは外交官としても活躍しスペインのフィリップ4世と英国チャールズ1世からナイト爵を授かっています。フィリップ4世の王妃(エリザベート)もチャールズ1世の王妃(ヘンリエッタ・マリア)もマリードメディシスとアンリ4世の娘でした。どのような母子の会話があったのだろうか、なかったのだろうか。

・ピーテル・パウル・ルーベンス:1640没

・マリー・ド・メディシス   :1642年没

・リシュリュー枢機卿     :1642年没

・ルイ13世         :1643年没

このあとフランスはリシュリューの継承者マゼラン宰相のサポートを受け4歳のルイ14世が即位します。太陽王と呼ばれ72年間も君臨し大世紀を迎えます。

ブルボン王朝の歴史的人物が繰り返し見たであろう絵画群、彼らが表情や衣装やポーズまでくまなく見たであろう絵画たちを、同じ距離感で鑑賞することができました

作品を通して自分と同じ位置にいる400年前の彼らと向き合えたのかもしれません。ナイトミュージアムで歴史に思いを馳せることができました。

東京文化LC

L城戸正幸

JAZZへの誘い(いざない)vol.1

JAZZって何だ~        


ひとくちにJAZZと言っても、その有り様はその姿や形において様々です。JAZZZ好きの人は多く見かけますが、どのアーティストのどの曲が好きか?なぜ好きか?と問いても その答えは様々で百家争鳴です。自分自身は40歳前ににサックスフォンを買って、

習い始めてから、(練習不足でなかなか上達しませんが…)沢山のアルバムを買い集めて深く聴くようになりました。特に若い頃は JAZZはうす暗い空間でウイスキーグラスを片手に煙草を燻らしながら聴くもんだと勝手に思い込んでいたものです。。

 但し 学生時代に先輩のアパートの部屋で聴いた ジョンコルトレーン(サックス)の「BALLADS」バラードというアルバムには心を奪われ、痺れました。

私の生まれ育った東京都下の吉祥寺では 今でも営業を続けているファンキー、

メグ、サムタイム(ライブハウス)などのジャズ喫茶に高校生の時分によく出入していたのですが、それは音楽を聴くためではなく、珈琲を飲んで友人と会話するときのBGMという位置づけの音楽でした。

改めてJAZZって何だ?の副題に戻ります。楽器を手に取って 練習を重ねて徐々に分かっていくことですが、JAZZを音の仕組みや裏拍子、アクセントのつけ方、リズムパターンといった音楽的な形式によって 明快に定義できれば便利なのですが、なかなか複雑なうえ 加えてJAZZの機能のひとつにアドリブ(即興演奏)があります。しかしながら これらはJAZZの魅力の全てをカバーするわけでもなく、またJAZZはSWINGする音楽だという言われ方もしますが、ノリの世界~SWINGとは何だ?これまた定義づけするのは難しいように思われます。

ひとつ言えることでJAZZは黒人音楽の中からアメリカで生まれて、年代と共に変化してきた音楽ではあります。

黒人音楽のブルースを基本として、特に20世紀初頭のニューオリンズのJAZZはそれまでのブラスバンドのマーチやブルースに即興演奏を組み合わせたもので、例えばレイチャールズの伝記映画「RAY」のブラスバンドの「聖者の行進」のシーンに当時の面影を見ることができます。

日本のジャズシーンは戦後になりますが、進駐軍クラブから、原信夫、ジョージ川口、小野満 渡辺貞夫 秋吉敏子ら後に名を成すジャズメンが育っていきました。前述したコルトレーンの次に アルバムを買い集めて聴き入ったのは トランペット奏者のマイルスデイビスでした。

次回はさらに深堀して ジャズボーカルやボサノバなどを紹介したいと思います。

※お断り 本文中の人名は謹んで敬称略としております

L河田弘昭

東京文化リレーコラム・蕎麦屋巡り 四軒目

更科 堀井総本家

四軒目は麻布の御三家 更科堀井です。麻布十番にある御三家更科はのれん分けなどで「更科 堀井総本家」「永坂更科 布屋太兵衛」「麻布永坂 更科本店」と三店あり少々混みいっています。

まずは本家筋の堀井から紹介です。

麻布十番は麻布界隈にお住いの方々の商店街で上品なお店が多くあります。最近は六本木ヒルズ開発などでにぎやかになり南北線や大江戸線も通るなど行きやすい街となりました。

さて、更科堀井ですが麻布十番の中でもけやき坂寄りにあります。いつ行っても人気店のためお客様で賑わっています。本店のほかに立川店、日本橋高島屋店があります。近頃ではニューヨークにも出店しました。

下町の蕎麦屋と違い家族連れや六本木のお客様が多いお店

永坂更科のヒストリー

永坂更科は1789年に麻布永坂町に初代布屋太兵衛(堀井清右衛門)が「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」を開業したことから始まります。その後代々堀井家が営業してきましたが、昭和の大恐慌で一度廃業しました。

これがきっかけで3店舗がランダムに永坂更科が生まれてしまいます。

まず、昭和23年に料理屋の馬場氏が「麻布永坂 更科本店」を七代目堀井氏より許可を得て開業。次に小林玩具店小林氏と麻布十番商店街の組合長木村氏、七代目堀井氏の出資した法人が設立され「永坂更科 布屋太兵衛」の店が開業されました。その後七代目堀井氏は出資を引き揚げますが、昭和59年に八代目堀井氏が「総本家 更科堀井」を開業し現在に至っています。

鴨焼き
野菜天種
赤坂生ビール

それでは布屋太兵衛の血筋をもつ堀井家の蕎麦をご紹介いたしましょう。

お蕎麦の前にまずは赤坂生ビールとつまみ、鴨焼きと野菜天種をたのみます。

鴨焼きはテーブルで焼く本格派、紙エプロンも提供されます。

上質な鴨を焼きたてで頂くのは珍しいですね。蕎麦は元来、天ぷらや鴨の油が良く合います。

天ぷらは種類も豊富で今回は野菜種をたのみましたが、このほかにも海老天種、小海老天種、かき揚げもあります。

もちろん老舗のあかし「そばがき」や「焼き蕎麦みそ」もあります。

蕎麦屋飲みには十分なメニュー延々と飲み続けられそうです。

「さらしな」 
「太打ち」

仕上げのお蕎麦は看板の「さらしな」と「太打ち」

「さらしな」は永坂更科の特徴 更科粉の白いお蕎麦とあま汁の組み合わせ、上品で細い麺とあま汁がベストマッチです。

一方「太打ち」は挽くるみの十割そば粉です。見ての通りうどんのように太いのが特徴で

から汁に合わせて頂きます。風味が豊かな田舎風蕎麦です。

両方の蕎麦が反対の性格ですが、更科堀井ではこのほかにももりそばと季節の変わりそばもあります。次回訪問時は是非食べたいと思います。

更科堀井は休日がほとんどありません。麻布十番に出向いたり、蕎麦が食べたいなと思ったりしたら、ちょっと立ち寄るのはいかがでしょう。

次回は永坂更科の2店目更科本店へ伺います。

総本家 更科堀井

電 話 : 03-3403-3401

住 所 : 〒106-0046  東京都港区元麻布3丁目11−4

営業時間: 平日【昼の部】11:30~15:30(L.O.15:00)

【夜の部】17:00~20:30(L.O.20:00)

土日祝 11:00~20:30(L.O.20:00)

定休日 : 日曜日(祝祭日は営業)

URL    : https://www.sarashina-horii.com/azabu/

ヒストリーライオン『どうした家康・なにした家康』【徹底解説!「五奉行」と「五大老」という存在】

みなさんこんにちは!


東京文化ライオンズとヒストリンクの歴獅子コラボ企画「ヒストリーライオン、どうした家康、何した家康」のコーナーです。

NHK大河「どうする家康」もいよいよ佳境に入りました。前回の放送では
徳川と豊臣の緊張感が高まり、直接対決の時がいよいよ間近に迫っていますね。
今回は直前大特集ということで、天下分け目の大いくさ「関ケ原の戦い」に至るまでの経緯を紹介します。

日本史の教科書で登場した「五奉行」と「五大老」という存在。
そもそも彼らは何者で、どのようなパワーバランスを持っていたのか?
それがどのように関ケ原の戦いへ繋がっていくのか
こちらを徹底解説致します!

【関ケ原の戦い】
そもそも関ケ原の戦いとは豊臣秀吉の死後に起こった
「元・五奉行筆頭の石田三成」と「五大老筆頭の徳川家康」との権力争いです。
1600年(慶長5年)9月15日、現岐阜県の美濃国関ヶ原にて勃発しました。

秀吉の死の直前、跡取りである秀頼は六歳と幼いため秀吉は行く末を大変憂いていました。
このままでは(歴史に数多くあるように)誰かに政権を乗っ取られてしまう。
秀吉はその危惧感から、直属の部下である「五奉行」と有力大名「五大老」の十人が
共に豊臣政権を支えていく制度を整え、口頭や書面を使い何度も何度も「秀頼を頼む」と十人に伝えていました。

五奉行のメンバーは秀吉の直接の家来であり、今風にいうなら官僚的存在。

石田三成(佐和山19万石)
前田玄以(亀山5万石)
浅野長政(甲府22万石)
増田長盛(郡山22万石)
長束正家(水口5万石)

といったメンバーです。
対する五大老は
豊臣家以外の有力武将である以下五人

宇喜多秀家(57万石)
前田利家(北陸など83万石)
上杉景勝(奥州など120万石)
毛利輝元(中国地方8か国120万5千石)
そして徳川家康
(関八州255万石)

といった顔ぶれでした。
石高の比較から雰囲気が伝わるかもしれませんが、
二つの立場には明確な違いがあります。
五奉行はあくまで秀吉の部下でしたが、
五大老に関しては五奉行とはまた異なる政治的な立場を持つ武将たちでした。
(※五奉行は官僚、五大老は軍事も行う政治家のような存在といえましょう)

その中でも家康は飛び抜けた石高を持ち、
官位や官職も他のメンバーよりも一段高いところにありました。
前回の放送で前田利家が諭すように喋っていたように、
戦国終盤のこの時期には武田信玄や上杉謙信などの猛将たちは既にこの世になく、
次の世代への代替わりの中で、彼らや織田信長などを知る歴戦の兵はもはや家康や前田利家くらいになっておりました。
特に家康はかつての信長の対等な同盟相手であり発言力も豊臣政権の中で随一のもの。
これをきちんと牽制できるのはもはや利家だけとなっていたのでした。

そんな家康に秀吉は当然危機感を覚えており、秀頼の行く末を案じていた秀吉は、
秀頼と家康の孫娘(千姫)とを婚姻させるなど
徳川と豊臣家の融和を積極的に図っていました。
自らの亡き後の豊臣政権は簡単に家康に食われてしまう。その未来図が痛いくらいに想像できたのでしょう。

しかし、このような必死の取り組みが水泡に帰す致命的な亀裂が豊臣政権に入ります。
それは朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の後始末に端を発する
「文治派VS武断派」の争いのことです。
朝鮮出兵に行かされた加藤清正・蜂須賀家政・藤堂高虎
などの武将は出兵先で大変な苦労をかけさせられ、それに対する奉行方からの恩賞もなく大変遺憾に感じていました。
更には1598年(慶長三年)の秀吉死去のタイミングで国内にいなかったことから、その隙に権力を増した五奉行(特に石田三成)との対立が決定的になったのでした。

この不穏な空気を家康は巧みに利用しました。派閥争いを利用して
「文治派(石田三成)VS武断派(反三成・親徳川家康)」
の構図を作った家康は、武断派の諸将と私的な婚姻関係を進める(※これは軍事同盟を結ぶに等しい行為です)などして水面下に準備を開始し、
秀吉死去の翌年である慶長四年、前田利家死去のタイミングを見計らって
ゆっくりと行動を開始するのでした。
「奥州にいる上杉家、豊臣家に謀反の疑いいり!」として、
背中をわざとガラ空きにして東へ向かうのです…!

次回の大河ドラマ「どうする家康」では
家康と旧知の中であった鳥居元忠のエピソード(伏見城の戦い)がありますので
どうぞお見逃しなく!


【ご参考】
☆どうする家康HP
https://nhk.or.jp/ieyasu/
☆ヒストリンク
https://historyenjoy.com

関ヶ原の戦いが起こるまでの伏線と経緯4つ 西軍の敗因とその後の動き
https://benesse.jp/contents/history/sekigaharanotatakai/
【戦国こぼれ話】なぜ関ヶ原合戦は、関ヶ原で戦うことになったのか。誰も知らなかった意外な理由
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/85a59917bfb20a4eac11af89538912bae0e2e32d

【文責】
東京文化ライオンズYCE委員会・地理歴史研究班所属、鈴木慎平
協力:徳川家を楽しむ会(歴史研究者とのマッチングサービス)
連絡先:yanaka.labo@gmail.com
歴史団体ヒストリンク・歴史を楽しむ会 代表 斎藤太一
連絡先:histlink.pro.fan@gmail.com